約 758,484 件
https://w.atwiki.jp/mihoyowikiunofficial/pages/385.html
目次 性能ステータス スキル1 前夜の暴風 スキル2 破壊の旋律 入手方法 説明 関連項目 性能 ステータス No. 名前 2625 終末の暴風 小分類 種類 ☆ 神格覚醒 ロケット砲 終末 5 属性 攻撃力 射速 残弾数 異能 2244 1.7 33
https://w.atwiki.jp/83452/pages/16179.html
○ 放課後ティータイムの曲を全て演奏し終わり、 大歓声と大きな拍手に包まれた頃には、午後の十時を過ぎていた。 歴史に残るようなライブにできたかどうかは分からない。 それは観客の皆がそれぞれに胸の中で感じてくれる事で、 私達が勝手に決められる事じゃないんだと思う。 開催した側が歴史に残るライブを自称するなんて変な話だ。 だけど、少なくとも私達軽音部にとっては、 自分の歴史に残る最高のライブだったのは間違いないと思う。 完璧な演奏だったわけじゃない。 観客の皆には分からなかったかもしれないけど、 いくつか細かいミスもあったし、演奏する曲の順番やMCも少し失敗があったと思う。 決して完璧にはなれない私達の最後のライブ。 でも、それが今の私達の精一杯の姿で、ありのままのライブだった。 私達が私達のままで開催できたライブなんだ。 終末が近付いても変わりたくなかった私達の姿が、 いつまでも変わらない五人で居たかった私達の姿が観客の皆の心に少しでも残れば、 それだけでこのライブを開催した意味もあるって感じられる。 最後の曲のふわふわを演奏し終わった後、 私達はムギの持って来てくれていたケーキを切り分けて、観客の皆に配る事にした。 私達のライブに参加してくれたせめてものお礼として、 最後の私達の我儘に付き合ってくれた感謝の想いを込めて、一人ずつに丁寧に配る。 五人に分かれて、ケーキを配布していく。 私が担当した箇所は信代やいちごが座ってる客席がある方だった。 ケーキを配った後、私は信代とハイタッチを交わし、 そのまま勢いで信代の旦那とも軽くハイタッチを交わす。 それを見ていた周囲の皆が次々と手を上げていく。 皆、私とハイタッチがしたいらしい。 つい嬉しくなって、私は一人ずつと手を重ねていく。 ありがとう。 皆、これまでも、これからも、ずっとありがとう……! 胸が震え、涙が出そうになったけど、 決して泣かずに笑顔でハイタッチを交わしていく。 ほとんどのケーキを配り終わった後、 私が担当する最後の席にはいちごがマラカスを手に持って無表情に待っていた。 本当に持って来てたんだよなあ、いちごの奴……。 舞台上から見つけた時には驚いたけど、 いちごの隣の席の人も迷惑には思ってないみたいだったし、 逆に私達の演奏のアクセントになるようなマラカス捌きを見せてたから、それでいいかと思った。 勿論、舞台上までいちごのマラカスの音が聞こえてたわけじゃないけど、私だってドラムの端くれだ。 いちごの身体の動きを見れば、私達の演奏と合わせたマラカス捌きだったって事くらいは分かる。 一度も合わせた事も無いのに、そんなにも私達の曲と合わせられるなんて、 よっぽど私達の曲を好きでいてくれたんだろうなって思う。 私は軽く微笑んで、いちごと視線を合わせる。 視線が合った一瞬後、いちごは足下にマラカスを置くと、私の胸の中に飛び込んできた。 予想外ないちごの行動だったけど、 私はすぐにいちごの身体を受け止めてから強く抱き締めた。 不思議だな。私も丁度いちごに抱き着きたい気分だったんだ。 いちごは私の背中に手を回す。 私はいちごの耳元で「ありがとう」と囁く。 私の胸の中でいちごも「律も」と震える声で呟いた。 抱き合っていた時間は、十秒にも満たなかった。 いちごが私から身体を離すと、 私の用意してたケーキを受け取り、席に座って食べ始めた。 それからいちごは私から目を逸らして無表情な顔をしてたけど、 その頬は少しだけ赤く染まっていて、その肩は少しだけ震えていた。 小さく息を吐いてから、私はいちごの肩に手を置いて、「またな」と言った。 多分、涙の別れは私といちごには似合わない。 ケーキを食べながら、いちごは無表情に頷いた。 ケーキを客席の全員に配り終わると、軽音部の皆は舞台上に集まった。 結構切り分けたはずだったけど、 ムギの持って来たケーキは二ホール余っていた。 一ホールは私達の分にするとして、 残りの一ホールをどうしようかと考えていると、急に唯が名乗り出た。 「一ホール全部を食べてみたい」というのが唯の主張だった。 本気で食べる気なのか……。 でも、別に断る理由も無いから、 「やれるもんならやってもらおうか」と言って、 私は残ったケーキの一ホールを唯に提供してやった。 流石の唯とは言え、途中で諦めるだろうと思っていたら、 見る見る内に本当に一ホールを一人で平らげやがった。 すげーよ、こいつ……。 一種の化物みたいなもんだな……。 だけど、一ホール食べ終わった唯は、しばらく舞台上から動けなくなってしまった。 そりゃそうだ。一人で一ホールも平らげやがったんだからな。 私達は舞台上に転がる唯を憂ちゃんに任せて、 ケーキを食べた人から各自解散してくれていい事を客席の皆に伝えた。 もう予定は入ってないみたいだけど、講堂をこのまま占拠しておくわけにもいかないからな。 そのすぐ後、皆はケーキを食べ終えたみたいだったけど、誰一人として講堂から出ようとしなかった。 このライブを終えてしまったら、いよいよ日曜日。 ……終末なんだ。 楽しい時間を終えて、残酷な現実に目を向けたくないのは私も一緒だった。 でも、そんなわけにもいかない。 どうにか解散してもらおうと私がマイクを持つと、 私が何を言うよりも先に、一人の観客がマラカスを鳴らしながら講堂から出ていった。 あえて目立つように「じゃあ、またね」と大きな声を出して、すぐにその場から居なくなった。 勿論、そうしたのはいちごだった。 皆が帰りやすい雰囲気を作ってくれたんだろう。 でも、このままいちごを一人で帰らせるのは危険だ。 私が走っていちごを追い掛けようとすると、 「またな、律! 私もいちごと一緒に帰るよ!」と春子がいちごを追い掛けて行った。 いちごの行動が春子の躊躇いを消してくれたんだ。 春子だけじゃない。講堂に居る観客の皆の躊躇いや苦しみまで……。 客席の皆が、一人ずつ意を決したように席から立ち始める。 「またね」、「じゃあね」、「ありがとう」、 そんな言葉が上がりながら、講堂から人が居なくなっていく。 私は……、私達はお辞儀をして、そのまま頭を下げ続ける。 いちごに……。皆に、最大限の感謝を込めて。 私に続いて澪と梓、ムギも頭を下げて観客の皆を見送る。 唯も慌てて澪達に続き、憂ちゃんと一緒に観客の皆に頭を下げた。 皆、最高のライブをありがとう。 私達はこの日の事を死ぬまで心に刻むから。 死んだって、憶え続けてやるから……。 だから、本当にありがとう……! またな、皆……! こうして、最後のライブは本当に終了した。 ○ 講堂の後片付けがそれなりに終わった後、 今日はもう遅いし、明日講堂が使われる予定も無いから、 講堂の後片付けはある程度で大丈夫だって和が言ってくれた。 それに残った講堂の後片付けは、 私達のライブを見に来てくれた先生達が明日やってくれるそうだ。 そんなのは先生達に悪いって私達は言ったけど、 和は微笑んで「先生達も好きでやりたい事らしいから」と返した。 申し訳ない気は勿論する。 でも、先生達の言ってる事も理解できる気はした。 私達はこの学校に三年間在籍しただけだけど、 当然ながら愛着もあるし、卒業する事に寂しさも感じてた。 だから、私達より遥かに長い間この学校に勤めてる先生達の愛着は、 私達の愛着なんか比べ物にならないくらいなんだろうな、って思う。 世界の最後の日も過ごす場所に選びたいくらいに……。 それでも私は何かを言おうと思ったけど、 和はもう一つだけ私達に先生達の言葉を代弁して贈ってくれた。 「若いんだから、思うように生きなさい。 後片付けくらいは先生達に任せてくれていい。 いいライブを見せてもらえたお礼だ」 そう言われちゃ、私も引き下がらないわけにはいかなかった。 そうして、私は和に今は居ない先生達へのお礼を頼んで、 澪と一緒に皆の荷物を音楽室に取りに行く事にしたわけだ。 唯達はもう少しだけ講堂を片付けるらしい。 主にムギの持って来たケーキの箱の後片付けだけどな。 先生達が明日片付けてくれるとは言っても、 流石に自分達の持って来た物くらいは片付けておかないとな。 唯達とはその後で校門で合流する事になってる。 私は澪と手を繋ぎ、無言で音楽室に向かって行く。 二人の間に言葉は必要無かった……わけじゃないけど、 多くの想いが胸の中に生まれては消えてて、上手く言葉にできそうになかった。 ライブ中、澪とセッションしながら、私は気付いていた。 今更過ぎるけど、私は澪の事が本気で好きなんだって。 傍に居たいし、抱き締めたいとも感じてる。誰よりも大切にしたいとも。 これは恋愛感情……なんだろうか? またそこが分からない。 根本的な問題になっちゃうけど、友達と恋人の境界線は何処にあるんだろう? 傍に居る事や抱き締める事や誰よりも大切するって事は、 別に恋人じゃなくても友達って立場のままで十分にできる事だと思う。 だったら、友達と恋人の境界線って何だ? やっぱり、アレなのかな……? キス……とか、オカルト研の中に居た二人みたいに裸で、とか……。 そういう事をしてこその恋人なのかな……? 変な事に思い至ってしまって、私は自分でも分かるくらい顔を赤くしてしまう。 でも、これも澪と友達以上恋人未満の私としては、考えなきゃいけない事だよなあ……。 こればかりは私一人で答えを出せる事でもなさそうだ。 明日、勇気を出して、澪の家でその話をしてみようと思う。 「恥ずかしい事を聞くな!」と五回くらい殴られるかもしれないけど、覚悟を決めて話し合おう。 それこそ私が明日やらなきゃいけない事だ。 にしても、五回か……。 あいつ腕力結構あるから、五回殴られるのは辛いな……。 だけど、澪に殴られるんならあんまり嫌じゃないかな……、って私ゃМか! ……一人でボケて、一人で突っ込んでしまった。 誰が見てるわけでもないのに、何だか気恥ずかしい。 恋愛初心者の中学生みたいだな、ってつい苦笑してしまう。 もうすぐ世界の終わりなのに、こんな事で思い悩めるなんて、すごい幸せな事なのかも。 しかし、関係無いけど、 火曜日にオカルト研の部室に居た女二人のカップルは結局誰だったんだ? オカルト研の部室に居たって事は、オカルト研の子達の関係者なのか? それとも学校に侵入した単なる不審者か? 何か不審者だと嫌だから、オカルト研の子達の関係者だって事にしておこう。 そんな事を考えてる内に、私達は音楽室の入口の前に辿り着いていた。 澪がポケットから音楽室の鍵を取り出し、鍵を開けて音楽室の扉を開く。 電気を点けると、音楽室に異変が起こってる事にすぐに気付いた。 私達がライブに向かう前とは、音楽室の中の様子がかなり変わってしまってたんだ。 席の配置が若干変わってるし、 片付けていたはずの音楽室の備品が何個か無造作に転がってる。 私達より後に出たのはさわちゃんだから、 さわちゃんがやったんだと考えられなくもなかったけど、それは違うはずだと私は感じていた。 ああ見えてさわちゃんはしっかりした音楽の先生だ。 意味も無く音楽室を散らかすような事は絶対にしない。 だとしたら、不審者……? その考えに至った私は身構え、澪を庇うように自分の身体を前に出した。 明日死んでしまうとしても、澪に危害を与える事は絶対に赦せない。 誰が相手でも、どんな不審者が襲い掛かって来ても、 澪だけはこの身に代えても護ってやるんだ……! 息を呑んで、音楽室の中を見回す。 誰か潜んでないか? 音楽室の中に他に異変は無いか? 私達の荷物は無事なのか? 慎重に、用心深く音楽室の様子を丹念に探っていく。 瞬間……、 「あっ……!」 不意に澪が驚いた声を上げる。 口元に手を当てて、異変を見つけたらしい箇所を指し示す。 私は更に身構え、澪が指し示したホワイトボードに視線を向け……、 って、ホワイトボード……? ホワイトボードを目にした私は一瞬にして力が抜けてしまい、その場に軽く倒れ込んでしまった。 どう反応したらいいのか分からなかったからだ。 ホワイトボードには大きな文字で、 『DEATH DEVIL参上!! by.クリスティーナ』と書いてあった。 何をやってるんだ、あの人は……。 考えてみれば、音楽室を出た後、さわちゃんは扉に鍵を掛けたはずだ。 こんな御時勢だし、鍵を掛け忘れるなんて事はないと思う。 という事は、音楽室に侵入できるのは鍵を持ってる人間だけになる。 本来なら部外者のクリスティーナ……、紀美さんだけど、あの人も元軽音部なんだ。 何となく記念でスペアキーを作ってるなんて事は……、あり得る。 超ありそう。何と言ってもあの人も『DEATH DEVIL』なんだからな……。 でも、そう考えれば、音楽室がちょっとだけ散らかってるのも納得できる。 きっと懐かしくなって、昔の軽音部の思い出の品なんかを探したりしてたんだろうな。 私は小さく苦笑しながら探ってみたけど、 どうやら紀美さんも含めて、音楽室の中には私達以外に誰も居ないみたいだった。 紀美さん、もう居ないのか……。 挨拶したかったなとは思う。 でも、紀美さんが学校に来てくれてたって事は嬉しかった。 多分だけど、紀美さんはラジオが終わった後で、私達のライブを観に来てくれてたんだろう。 私達のライブがある事を、さわちゃんが紀美さんに伝えてくれてたんじゃないかな。 勿論、単に懐かしくなって音楽室に顔を出してみただけかもしれないけど、 本当に私達のライブを少しでも観てくれていたら嬉しい。 何となく、もう一度ホワイトボードに目を向けてみる。 よく見ると『DEATH DEVIL参上!!』以外にも色々細かく書いてあるみたいだ。 『ラジオもヨロシク!!』とか、『ヅラクター給料上げて!!』とか、 私達に言えた事じゃないけど、かなりフリーダムな落書きだな……。 だけど、そんな中にも紀美さんの気遣いが見て取れた。 その落書きは私達の落書きとは重ならないように書かれてたからだ。 私達の落書きにも何かの想いが込められてるかもしれないって思ってくれたんだろう。 今は単に取り留めの無い唯の落書きがあるくらいだったけど、 そんな事にも気の回る紀美さんの優しさが何だかとても温かい。 「これ……、いいな……」 ホワイトボードの上に何か気になる言葉を見つけたらしい。 すごく嬉しそうな顔で澪が呟いた。 澪の視線の先には紀美さんらしい洒落の効いた言葉が記されていた。 私も思わず笑顔になって、後ろから澪の背中に抱き着いた。 しばらくそのまま二人でくっ付いて笑顔を浮かべ合った。 51
https://w.atwiki.jp/83452/pages/16174.html
○ タイムカプセルを埋めて音楽室に戻ると、 私達は五人揃って、静かに自分の楽器のメンテナンスを始める。 唯達、弦楽パートは弦を変え、念入りにチューニングをしている。 キーボードのムギは特にメンテナンスする事も無かったみたいだけど、 私達の曲で使う音色だけじゃなく、普段は使わない音色まで名残惜しそうに何度も鳴らしていた。 多分、それぞれがそれぞれに、自分の相棒との最後の会話を交わしているんだと思う。 勿論、それは私も同じだ。 中学の頃、やっと中古で手に入れた私の相棒のドラム。 買ってから叩かなかった日は一日も無い……とまではいかないけど、 心の中では毎日こいつを叩き続けてた。どんな風に叩いてやろうかって考えるのが楽しかった。 唯みたいに名前を付けたりはしてないけど、こいつだって私の一番の相棒なんだ。 最後まで頼むぜ、相棒。 心の中で呟きながら、私も最後のメンテナンスに取り掛かる。 そういえば、世界の終わり……、 終末は生き物だけが死を迎えるっていう世にも奇妙な現象らしい。 その原理や理屈はともかくとして、 もし本当にそうだとしたら、こいつらはこの世界に生き残るって事なのかな。 こいつらがこの世界に残るのは嬉しいけど、私は同時に寂しくもなった。 例えこいつらがこの世界に残れたとしても、誰も演奏する人が居ないまま、 音を奏でる事もできず、ただ埃を被って風化していくって事になるんだろうか。 その想像は私の心をとても寂しくさせた。 だから、せめて……と思う。 もし新しい人類が生まれるとするなら、せめてできるだけ早く生まれてほしい。 その人類が取り残されたこいつらに興味を持って、 その場に居ない私達の代わりに演奏してやってほしい。 何だったら終末を迎えた地球に興味を持った何処かの宇宙人なんかでもいい。 その宇宙人がこいつらを演奏してやってくれてもいい。 誰でも構わないんだ。 私達の相棒を演奏してくれるなら……。 途方もなく馬鹿馬鹿しい想像だったけど、私は心の底からそれを願う。 皆のメンテナンスが完全に終わった後、 音楽室での最後の練習を手早く終わらせると、私達は講堂の舞台袖に相棒達を運び込む事にした。 ライブまでまだ時間はあったけど、準備は完了させておかないといけない。 特にライブ直前にドラムを運び込んで即座に演奏するなんて、流石の私でも体力的に自信が無いしな。 本当はもう少し練習しておきたくもあったけど、 どうせいくら練習しても練習し足りたと思える事はないだろう。 不安はある。緊張もしている。 でも、それはどんなライブでも同じ事だ。 これは私達がこれまで何度も感じて来た緊張と不安だ。 だから、私達は普段通りその緊張に向き合えばいい。 いつもと同じく、これまで練習して来た自分達の成果を信じればいいだけだ。 舞台袖では和と憂ちゃんが待っていた。 私達を待っていたのかと思ったけど、そうじゃなかった。 和は今日の講堂のイベントを裏方で取り仕切る仕事があるらしく、 憂ちゃんはその仕事を手伝ってるんだそうだった。 何で憂ちゃんが和を、って一瞬思ったけど、すぐに思い直した。 この前、二人で私の家に来た事だし、和と憂ちゃんって実はかなり仲がいいんだよな。 そりゃそうか。 唯が和の幼馴染みって事は、憂ちゃんも和の幼馴染みって事なんだから。 私の知らない所で、二人の間に色んな絡みがあるんだろう。 ふと気になって、私の幼馴染みに視線を向けてみる。 秋山澪……、私の幼馴染みで友達以上恋人未満。 流石に憂ちゃんと和が私達みたいな特殊な関係とは言わないけど、 やっぱり幼馴染みってのは、誰にとっても特別な存在なんだと思う。 憂ちゃんもそうなのかは知らないけど、 唯はたまに私達には決して向けない表情を和に向ける事がある。 安心しているのか、信頼し切っているのか、 私達には立ち入れない関係性を感じさせる温かい笑顔を……。 ひょっとすると、私も澪に向けてそんな表情を向ける事があるんだろうか? 自分では分からないけど、そう考えると少し照れ臭い。 楽器を配置し終わってから、舞台袖の和達と別れて音楽室に戻ると、 妙に嬉しそうな表情を浮かべているさわちゃんが長椅子の上で眠っていた。 しかも、ただ眠ってるわけじゃない。 美容室でシャンプーしてもらう時みたいな体勢で、 長椅子の手すりに首の付け根を乗せて、ガクンと頭だけ床の方に垂らしていびきを掻いていた。 よくこんな体勢で眠れるな。 と言うか、絶対これ首痛めるぞ……。 私のそんな思いをよそに大きな寝息を立てるさわちゃんは、手に大きめの紙袋を持っていた。 死後硬直みたいに固く握られたさわちゃんの手から、無理矢理紙袋を奪い取ってみる。 予想通り、紙袋の中には五人分の洋服が入っていた。 多分、さわちゃんは徹夜で私達の衣装を縫い終えて音楽室まで来てくれたんだけど、 楽器を運んでて居ない私達を長椅子に座って待ってる内に、力尽きて寝ちゃったんだろうな。 私達のためにこんなに頑張ってくれたんだ……。 そりゃ自分の作った衣装を私達に着せたいっていう下心もあるんだけど、 今は私達のライブのために頑張ってくれた顧問の先生が純粋に誇らしかった。 ありがとう、さわちゃん。 面と向かって言った事は無かったはずだけど、本当にありがとう。 さわちゃんが顧問になってくれたおかげで、私達は三年間本当に楽しかったよ……。 私達、これからこの衣装を着て最高の演奏をするから、 さわちゃんへの感謝も込めて、精一杯演奏するからさ……。 だから、見守ってて下さい、先生。 皆もそういう事を考えてたんだと思う。 私が目配せをすると、皆が静かながら強く頷いて、さわちゃんの衣装を手に取り始める。 遅れないように、私も紙袋の中から自分の衣装を探し始める。 これから着替えるんだ。私達の最後の勝負服に。 正直な話、さわちゃんの用意したその衣装は意外だった。 世界が終わらなくても、ライブはこれが最後の機会になるわけだし、 さわちゃんがどんな衣装を用意してても、私達はそれに着替えてみせるつもりだった。 スク水だろうと、ナース服だろうと、チャイナ服だろうと、ボンテージだろうと、 露出の多い服装を好むさわちゃんの求める衣装に着替えようと思ってた。 そういう服に一番抵抗がありそうな澪でさえ、私達のその考えに反対しなかった。 澪だってさわちゃんに感謝の気持ちを示したいのは同じなんだ。 それこそ、私達はV字フロント水着だろうと着……、 いや、流石にV字フロント水着は嫌だけど、ある程度の露出までは気にしないつもりだったんだ。 だからこそ、さわちゃんの用意した最後の衣装は意外だった。 露出が完全に無いとは言わないけど、精々夏服やキャミソールレベルの露出の衣装。 下手すりゃ、私の持ってる夏服の方が露出してるくらいだ。 この衣装でいいのかなって、少し不安になる。 でも、この衣装を持って音楽室に来てくれてる以上、 この衣装こそさわちゃんが私達に最後のライブで着てほしい衣装のはずだ。 なら、私達も迷わない事にしよう。 最後のライブの最後の衣装はこれで決まりだ。 今回の衣装は全員がお揃いの服じゃなかったから、 どれが誰の服かは分かりにくかったけど、 だったら、さわちゃんが何を考えて私達の衣装作ったのか考えればいいだけだ。 まあ、そんなに悩まなくても大丈夫。 私達のスリーサイズまで何故か知ってるさわちゃんの事だ。 これまでもそうだったんだし、それぞれの体格に合った衣装を作ってくれてるに違いない。 それに私の場合はもっと簡単だ。 さわちゃんとは何回も私の好きな色の話をした事がある。 私が好きな色は、普段、私が着用してるカチューシャの色……、 私がそうありたいと思う明るい光の色……、黄色だ。 だから、私には黄色の衣装を用意してくれてるはずだ。 黄色のズボン……、黄色い下着の方じゃないパンツはすぐに見つかった。 これだと見立てて履いてみると、サイズもぴったりだった。 続けて私の体格に合った衣装を探し出し、袖に腕を通していく。 皆が着替えるまで、時間はそんなに掛からなかった。 梓は一番小さな服を着ればいいだけだし、 何か悔しいけど澪は胸元がゆったりした衣装を探せばいいだけだったからな。 着替え終わると、次はその衣装に合う髪型を皆で話し合っていく。 髪が短めな唯と私は普段通りでいいとしても、 澪、ムギ、梓の長髪メンバーはそういうわけにもいかない。 髪が長いと、衣装に合わない髪型が余計に目立っちゃうんだ。 実は私、それが面倒で髪をあんまり伸ばしてなかったりするし。 勿論、今の髪型が気に入ってるからでもあるけど。 話し合った結果、澪は特に髪を結ばず、梓とムギがポニーテールでいく事になった。 梓とムギのポニーテール姿はあんまり見た事が無かったけど、 よく似合ってたし、二人の衣装にぴったりな髪型だと思った。 唯なんか「ポニーテールのあずにゃんも可愛い」って梓に抱き着いたくらいだ。 とにかく、これで全員の着替えは終わった。 後はさわちゃんを起こしてこの姿を見せて……。 そう思った瞬間だった。 突然、何の前触れもなく、私の前髪が私の目を隠すように下りてきた。 何で急に前髪が下りてくるんだ? そんなの簡単だ。誰かが私のカチューシャを外したからだ。 いや、今はそんな事は重要じゃない。 心の準備ができてる時ならまだしも、 私のこんなおかしな髪型を急に皆に見せるなんて恥ずかし過ぎる。 唯のおでこ禁止らしいが、私は前髪禁止なんだ。 ものすごく嫌ってわけじゃないけど、人にはあんまり見せたくない。 俯いて、両手で顔を隠して、誰かに外されてしまったカチューシャを探す。 カチューシャはすぐに見つかった。 犯人はさわちゃんだった。 涼しい表情をして、何事も無いかのように手に私のカチューシャを持っている。 いつの間にか目を覚ましていて、私の背後からこっそりカチューシャを外したらしい。 私は「返せよ、さわちゃん」と責めるみたいに要求してみたけど、 さわちゃんは何故だかすごく優しい顔を浮かべてから、私に頭を下げた。 「このライブ、前髪を下ろしたりっちゃんの姿を見せてほしいのよ」って、懇願するみたいに。 これまで、衣装の事について、さわちゃんとは何回も話した事がある。 唯やムギは大体どんな衣装でも着るだろうし、 澪は逆にほとんどの衣装を着たがらないだろうから、 いつの間にか私がさわちゃんと衣装の打ち合わせをするようになっていた。 とは言っても、私も別に衣装にこだわりがある方じゃないから、 二つだけ釘を刺しておいて、後の事はほとんどさわちゃんに丸投げしてたんだけどな。 釘を刺した事の一つ目は、単純にあんまり露出の多い衣装は作らない事。 いや、正確には別に作ってもいいけど、私達に着させないようにする事だった。 そんな衣装作られても澪は絶対着ないし、私だって着たくないもんな。 二つ目は、お願いにも似たすごく個人的な約束だ。 こっちの方も単純。 私の衣装は私がカチューシャを着ける事を前提として製作してほしいって約束だった。 どんな衣装でも大体は着るけど、それだけは譲れなかった。 前髪を下ろした私なんておかしいしさ。 少し不満そうにしながらも、これまでさわちゃんは私との約束を破らなかった。 ちょっと露出が多めの事もあったけど、 私の衣装だけはカチューシャに似合いそうな衣装にしてくれていた。 さわちゃんも分かってくれてるんだと思ってた。 私が前髪を下ろしたくないんだって。 いや、違うか。 今もさわちゃんは私が前髪を下ろしたくない事を分かってるはずだ。 分かってるけど、私に前髪を下ろした姿でライブをしてほしいんだろう。 迷いながらさわちゃんの顔を見ていると、さわちゃんは、 「私だけじゃないのよ。クラスの皆も、カチューシャを外したりっちゃんを見たがってるの」って続けた。 そう言われると、ライブを観に来てもらう立場としては弱い。 クラスの皆だって、私が前髪を下ろすのは苦手だって事は知ってるはずだ。 だけど、見てみたいんだと思う。前髪を下ろした本当の私の姿を。 それが誤魔化しの無い私の姿を皆にぶつける事に繋がるんだろうし。 あ、いや、本当の私の姿は、カチューシャを着けてる方なんだけどな。 前髪を下ろしてる方は仮の姿だ。私の中では。 でも、皆がそれを望んでるなら、叶えてあげるのがプロってやつだ。 ……プロじゃないけど。 話をさわちゃんにもう少しだけ詳しく聞いてみると、 クラスの皆の中でも、特にいちごが私に前髪を下ろしてもらいたがってるんだそうだった。 いちごかよ……。 それならそうと、私に直接言ってくれりゃいいのにさ。 まあ、いちごも面と向かっては人に言いにくい事があるのかもしれないな。 私は溜息を吐いてから、苦笑する。 心は決まった。 今回くらい、特別出血大サービスだ。 カチューシャを外して、前髪を下ろした姿で演奏してやろうじゃないか。 ……つっても、やっぱりちょっと恥ずかしい。 幸い、私の衣装の上着はパーカーだったから、 フードを被る事だけはさわちゃんに許してもらった。 「フードを被らないのが日本の風土なのにー」 って、駄洒落を言いながらだったけど、さわちゃんのその視線はすごく優しかった。 もしかしたら、こうなるのを見越して私の衣装をパーカーにしてくれたのかもしれない。 何はともあれ、こうして全員の衣装合わせが完了した。 皆で肩を並べて整列してみる。 若干コミックバンドっぽかった今までとは違って、 今回は今時の女の子のラフな服装って感じで、何だか本当にガールズバンドみたいだ。 いや、実際にもガールズバンドなんだけど、今までが今までだったからなあ……。 満足そうに私達の衣装を観賞した後、 さわちゃんが最後に手作りらしいバッジを私達に手渡した。 バッジには『Sweets』って書いてある。 折角ガールズバンドみたいな感じになったのに、 どれだけお菓子ばかり食べてるお菓子系だと思われてるんだ、私達は。 ……あれ? お菓子系ってそういう意味じゃなかったっけ? まあいいや。 お菓子ばかり食べてるってのも、我等が放課後ティータイムの正しい姿だ。 苦笑しながら皆でバッジを着け合って、今度こそ最後の勝負服に着替え終わった。 携帯電話で確認してみると、遂に時間は午後五時を回っていた。 円陣を組んで皆で気合を入れ合おうと思って部室内を見回すと、 いつの間にかムギがお茶の用意をして、さわちゃんが一足先にケーキを食べていた。 本当にマイペースな方々ですね! 肩を落として、澪に視線を向けてみる。 澪も呆れた顔を少し浮かべてたけど、すぐに「仕方ないな」と呟いて自分の椅子に座った。 確かに仕方ないか、と私も思い直す。 これも私達にとっては、バンド活動の一環なんだ。 私も席に付いて、最後になるかもしれないムギのお茶を待つ事にした。 46
https://w.atwiki.jp/merge-mansion/pages/96.html
https://w.atwiki.jp/83452/pages/16142.html
○ ――水曜日 泣いているうちに眠っていたらしい。 気が付けばセットしている携帯のアラームが鳴り響いていた。 アラームを解除して、私は何も考えないようにしながらラジカセの電源を入れる。 軽快な音楽が……、流れない。 雑音だけがスピーカーから耳障りな音を立てる。 ○ 私は電気を点けて、もう一度ラジカセを確認してみる。 コンセントは抜けてないし(雑音が出てるんだから抜けてるはずないけど)、 周波数も間違ってないし、AMとFMの切り替えを間違ってるわけでもなかった。 じゃあ、どうしてなんだろう、と思うけど、答えは出ない。 ラジオ局や電波自体に何かトラブルが起こったんだろうか? 「世界の終わり……か」 何となく呟いてみる。 正直な話、まだあまり実感は湧いてない。 でも、少しずつ、その終わりに近付いてる。 何かが一つずつ終わっていって、最後の日には何もかも無くしてしまう。 そんな気だけはする。 私は深い溜息を吐いて、自分の携帯電話を手に取った。 他の家のラジオの状況を確認してみようと思ったからだ。 ほとんど無い可能性だけど、 私の家だけ電波の入りが悪いとかそういう可能性がないわけじゃないしな。 それに何かが一つずつ終わってしまうとしても、 紀美さんのラジオ番組をもう無くしてしまうのはきつい。 世界の終わりが近付いていても、 そんな事関係なく発信してくれるラジオ『DEATH DEVIL』が私は好きだ。 言い過ぎな気もするけど、救いだったって言えるかもしれない。 本当はすごく恐くて、逃げ出したくて、 それでも、紀美さんの元気な声を聴いてるだけで、私は今までやってこれた。 だから、私はあの番組を無くしてしまいたくない。 「週末まではお前らと一緒!」と紀美さんは言ってくれた。 週末まで……、終末まで……。 だから、何があっても、何が起こったとしても、 それまでは紀美さんとあのスタッフは放送を続けてくれるはず。 私はそう信じたい。 携帯電話の電話帳を開いて、誰に電話を掛けようかと私は少し迷う。 軽音部のメンバーはさわちゃん含めて全員があのラジオを聴いてるらしかったけど、 流石に全員が全員、毎日聴いてるわけじゃないみたいだった。 唯は早寝に定評があるし、ムギも家の手伝い(社交的な意味で)で聴けない日が多いらしい。 さわちゃんも「恥ずかしいから何回かに一回聴くだけで十分」と苦笑してた。 そんなわけで、ラジオを毎日聴いてるのは私と澪、それと梓になる。 澪……にはまだ電話を掛けられない。 あんな別れをした後だし、私もまだ自分の涙の理由を見つけられてない。 涙の理由が分かるまで、私は澪に会っちゃいけないし、何かを話せもしないと思う。 何かを話そうとしたって、また私達は涙を流し合ってしまうだけになるだろう。 勿論、澪とはもう一度話し合わないといけないけれど、今は無理だ。 もう時間は無いけれど、でも、今は駄目だと思う。 となると……。 「梓になる……よな」 自分に言い聞かせるように呟く。 考えるまでもない。 今の私が連絡を取るべきなのは梓だ。 最近、梓にはあんまりいい印象を持たれてないみたいだけど、 電話をすればラジオの受信状況くらいは教えてくれるだろう。 でも、それだけでいいのか? 折角のチャンスなんだ。 その電話で梓の悩みを聞いておく方がいいんじゃないのか? そう思い始めると、梓の番号に発信できなくなる。 梓の悩みについても、もう触れてあげられるだけの時間も少ない。 部長として……、じゃないか。 一人の梓の友達として、本当は梓の悩みを解決してあげたい。 だけど、こんな私に何かできるのかって、不安になる。 動かなきゃ何も始まらない。 それを分かってるから、昨日私は動いた。 でも、動いた結果がどうだ? 意味不明の涙に縛られて、何もいい方向には動かなかった。 分かり合ってるはずの幼馴染みの澪との問題すら、何も解決させられなかった。 そんな私に何ができる? まだ梓の悩みが何なのかさえ分かってない私に何をしてやれる? 何度も立ち止まりそうになる。 恐くて動き出せなくなる。 それでも……。 私はやっぱり馬鹿なのかもしれない。 気が付けば梓の電話番号に発信しようと、私は携帯電話の発信ボタンに指を置いていた。 動かないままでいる方が恐いから。 私の知らない所で梓が苦しんでると考える方が何倍も恐いから。 私は梓に電話を掛けようと思った。 いや、掛けようと思ったんだけど……。 ふと重大な事に気が付いて、私はベッドに全身から沈み込んだ。 身体から力が抜けていくのを感じる。 自分が情けなくて無力感に支配されてるとか、そういう事じゃない。 私は枕に顔を沈めて、自分の間の悪さに呆れながら呟く。 「圏外かよー……」 そう。 私の携帯電話の電波状況は圏外を示していた。 これだけ気合を入れておいて、電波が圏外とかギャグかよ……。 私らしいと言えば私らしいんだけど、こりゃあんまりだ……。 でも、まあ、よかったと言えば、よかったのかもしれない。 これでとりあえずラジオ局の方に問題がある可能性は少なくなった。 こんな住宅地で携帯電話の電波が圏外になるなんて、普通はありえない。 そうなると電波塔か、衛星か、 とにかく電波そのものにトラブルがあったって事になる。 ラジオ局がテロか何かで壊された可能性も少しは考えていただけに、 ひとまずは胸を撫で下ろしたくなる気分だった。 「それにしても、どうするかなー……」 私は立ち上がって、自室の窓に近寄りながら呟く。 澪本人が言っていた事だし、今日、澪は登校してこないだろう。 家の中で一人、私と同じように涙の理由を考えるんだろう。 私は学校に行こうと思う。 澪が登校してこなくても、私は軽音部に行かなきゃいけない。 言い方は悪いけど、私は軽音部の最後のライブの主犯格で首謀者なんだ。 誰が来ても、誰も来なくても、私は軽音部の部室に行かなきゃいけない。 間違ってばかりの私だけど、それだけは間違ってないと思う。 でも、それを部の皆に押し付けるのはよくないとも思う。 今日、澪は登校しない。軽音部の皆が揃う事はない。 それなら、その事を皆にも伝えておくべきだ。 それで澪のいない軽音部に、 皆が揃わない軽音部に意味がないと思ったなら、 今日は登校せず思うように過ごす方が皆のためになるはずだ。 だけど、携帯電話が使えないとなると、それを伝えようがない。 どうしたものか……、と唸ってみたけど、 またそこで私は簡単な事に気付いて、またも脱力してしまった。 家の電話があるじゃんか。 最近、全然使ってなかったから、存在自体忘れてた。 ごめんな、家の電話。 電波が悪いと言っても、流石に電話線で繋がってる家の電話は無事なはずだ。 もしかしたら家の電話も使えなくなってるかもしれないけど、まだ試してみる価値はある。 窓の外を見ながら、自分の間抜けさ加減に何となく苦笑してしまう。 そういやカーテンも閉めずに寝ちゃったな、 と思いながらカーテンを閉めようと手に持って、そこで私の手が止まった。 それは偶然なのか……、必然なのか……、 あってはいけないものがそこにあった。いてはいけない人がそこにいた。 見つけてしまったんだ。 それが私の妄想か幻覚ならどんなによかっただろう。 よく見えたわけじゃない。 そいつは窓の外でほんのちょっと私の視界の隅に入り込んで、すぐに消えていった。 だから、気のせいだと思ってもいいはずだった。 妄想や幻覚だと思い込んでも、何の問題もなかった。 だけど……! 万が一にでもそれがそいつである可能性があるのなら……! 放っておけるか! 「あの……馬鹿!」 思わず叫んで、朝から着たままの制服姿で私は部屋から飛び出る。 玄関まで走り、靴を履く時間ももどかしく感じながら、無我夢中で駆ける。 あいつが何処に行ったのかは分からない。 進んだ大体の方向も分かるかどうかだ。 それで十分だった。 こんな時期、こんな真夜中に、たった一人で出歩くなんて、正気の沙汰とは思えない。 それもあんな小さな……、 私よりも小さな後輩が……、 梓が……! こんな真夜中に……! 放っておく事は出来なかった。 無視する事なんて出来なかった。 嫌になるほど泣いていたせいか、 普段使ってない身体の筋肉が筋肉痛で悲鳴を上げる。 それでも駆ける。 夜の闇の中、申し訳程度に点いた街灯の下を精一杯走る。 走らないといけなかった。見つけ出さないといけなかった。 あいつは馬鹿か。 あいつが何を悩んでいるのか知らない。 あいつに何が起こっているのかも知らない。 だけど、こんな何が起こるか分からない状況で、 何が起こっても自己責任で片付けられてしまうような状況で、 こんな真夜中にあんな女の子が一人きりでいていいはずがない。 別に戒厳令が出てるわけじゃない。 夜間外出禁止令が出てるわけでもない。 この付近は比較的治安のいい方だとも聞いてる。 でも、そんな事は関係ない! 私の後輩に……、大切な後輩に……、 嫌われていたとしても大好きな後輩に……、 何かが起こってほしくないんだ。 何かが起こってからじゃ遅いんだ! 私の間抜けな気のせいならそれでいい。 万が一にでもあの影が梓の可能性があるなら、私は走らなきゃ後悔する。 絶対に後悔するから。 だから! 私は夜の暗がりの中、目を凝らして梓を捜し続ける。 失いたくない後輩を走り回って探す。 かなり肌寒い季節、汗だくになって走る。 走り続ける。 息を切らす。 身体が軋む。 それでも、走り続け……。 気が付けば、あまり知らない公園に私は辿り着いていた。 汗まみれで、息を切らして、 さっき転んだ時に膝を擦りむいて血を流しながら、私は一人で公園に立っていた。 三十分は捜していたはずだ。 ドラムをやってるんだし、 体力的にはかなり自信のある私が本気で限界を感じるくらいに走り回った。 梓は何処にも見付からなかった。 やっぱり私の見間違いだったんだろうか……。 気のせいだったんだろうか……。 何にしろ、これ以上捜し回っていても意味が無いかもしれない。 ひとまずは梓の家に連絡を取ろう。 間抜けな事に、さっきまでの私にはそこまで思いが至らなかった。 そうだ。連絡を取るべきだったんだ。 連絡を取って、その後にどうするか考えよう。 私は息を切らしながら、 持ち出していた携帯電話に目を向け、 瞬間、背筋が凍った。 分かっていた事だ。 分かっていたのに、動揺して忘れてしまっていた。 携帯電話の画面には、圏外と表示されていた。 そこでようやく私は気付いたんだ。 さっきまで馬鹿と責めていた梓と同じ状況に自分が陥ってしまっている事に。 急に身体が震え始める。 冬の夜の肌寒さだけじゃない。 恐怖と不安で、全身の震えを止める事が出来ない。 「大丈夫……。 大丈夫……のはずだ……」 自分に言い聞かせるけど、自分自身が納得できていない。 梓よりは背が高いけれども、男の子っぽいともよく言われるけども、 結局、私は平均よりも背の低くて力の弱い、小さな女の子でしかなかった。 考え始めると止まらない。 さっき梓に対して考えていた事が、そのまま自分に跳ね返ってくる。 酷いなあ……。 我ながら本当に酷いブーメランだよ……。 少しの物音に怯える。 何かと思えば猫で胸を撫で下ろすけど、逆に人通りの無い事が余計不安に感じる。 夜の闇は深く、誰の気配もない。 世界にひとりぼっちになってしまったのような不安感。 いや、平気なはずだ。単に私はこのまま家に帰ればいいだけだ。 家に帰って、梓の家に連絡するだけだ。 分かっているのに、足を踏み出せない。 さっきまで三十分も走ってここまで辿り着いた。 家までの帰り道は何となく分かるけれど、 単純に計算して一時間近くは掛かる計算になってしまう。 一時間……。 この闇の中を一時間も歩くなんて、意識し出すと恐ろしくてたまらない。 誰か知り合いの家が近くに無いかと考えてみるけど、どうしても思い当たらなかった。 叫び出したくなる恐怖。 逃げ出したくなる現実。 恐い……。 恐いよ……。 と。 立ち竦む私を急に小さなライトが照らした。 「ひっ……」 小さく呻いて、身体を強張らせる私。 逃げ出したくても、足が動かない。 本当に弱い私……。 泣き出したくなるくらいに……。 でも。 こんな所で終わってしまうわけにはいかないから。 涙の理由を澪に伝えられてないから。 拳を握り締めて、勇気を出して、そのライトの光源に視線を向けて……。 「あれ……?」 またそこで私は力が抜けた。 今日は何だか空回りする事が多い気がする。 そういう星回りなのか? 「まったく、しょうがねえな……。 帰るぞ、姉ちゃん」 そうやって頭を掻きながら言ったのは、 母さんのママチャリに乗った私の弟……、聡だった。 14
https://w.atwiki.jp/83452/pages/16152.html
「梓がそんなに大切にしてくれてるとは思わなかったよ。 京都の土産なのに、京都とは何の関係もないしさ。 実は呆れられてるんじゃないかって、何となく思ってた」 「呆れるなんて……、そんな事……。 私、嬉しくて……、宝物にしようと思って……、 でも、大切にしてたのに……、落としちゃうなんて、私……。 こんなんじゃ……、こんなんじゃ私……、 先輩達の後輩でいる資格なんて……」 涙を流して、梓はその場に目を伏せようとする。 私は梓の肩を掴んでいる手に力を入れて、視線を私の方に向かせる。 梓と目を合わせて、視線を逸らさない。 泣き腫らした梓の瞼が痛々しくて、ひどく胸が痛くなってくる。 梓を悲しませているのは、軽音部の先輩である私達の無力が原因だ。 私の方も、梓と同じく大声で泣きたい気分だった。 役に立てず、負い目しか感じさせる事のできない無力過ぎる私達。 自分の情けなさに涙が滲んでくる。 だけど、泣いちゃいけない。視線を逸らしちゃいけない。 今一番泣きたいのは梓で、今泣いていいのは梓だけだ。 どうして、キーホルダーを失くしたって言ってくれなかったんだ? そう言葉にしようとしてしまうけど、唇を噛み締めて必死に堪える。 梓がキーホルダーを失くした事を私達に話さなかった理由……、 それは訊くまでもないし、訊いちゃいけない事だ。 キーホルダーを失くしたと私達に話してしまったら、 いや、知られてしまったら、 私達の心が自分から離れていってしまうって、梓は考えたんだ。 キーホルダーを一週間も一人で捜し続けてた事から考えても、それは間違いない。 あのキーホルダーは私達にとって、単なる思い出の品なんかじゃない。 軽音部の絆の証、絆の品なんだ。 特に来年一人で取り残されるはずだった梓にとっては、私達以上にその意味があるだろう。 一人でも大丈夫だと思えるために、梓はきっとあのキーホルダーに頼ってくれてたんだ。 絆を信じられるために。 そうだ。 梓が本当に悲しんでる理由は、キーホルダーを失くしたからじゃない。 キーホルダーを失くした事で、 私達の絆その物も失くしてしまった気がしてしまって、それが悲しいんだ。 実際、私達だって、キーホルダーを失くされた事で梓を責めたりしない。 梓も私達から責められるとは思ってないだろう。 梓を責めているのは梓自身。 世界の終わりを間近にしたこの時期に、絆を失くしてしまった自分を許せないんだ。 だから、誰にも知られないままに、自分の力だけで失くしたキーホルダーを見付けたかったんだ。 でも、だからこそ、私には梓に掛けてやれる慰めの言葉が思い付かなかった。 キーホルダーを失くした事なんて気にするな、なんて簡単な言葉で片付く話じゃない。 そんな言葉を掛けてしまったら、それこそ梓は今以上に自分自身を責める事になるはずだ。 一瞬だけの笑顔は貰えるかもしれない。 その場限りの安心は得られるかもしれない。 でも、それだけだ。 それ以降、世界の終わりまで、梓は自分自身を責め続ける事になるだろう。 勿論、私だって、私自身を許せないまま、世界の終わりを迎える事になる。 なら、私に何ができる? 無力で、頼りなくて、後輩に気を遣わせて追い込んでしまった私に何が? ……何もできないのかもしれない。 何もしてやれないのかもしれない。 少なくとも、今の私にできる事は何もない。今の私には何もできないんだ。 でも……。 だからこそ、今の私じゃなく……。 私は大きく溜息を吐く。 何もできない今の自分を情けなく思いながら、 それでも、掴んでいた梓の肩を思い切り自分の方に引き寄せる。 私の胸元に椅子から転がり込んでくる梓を座り込んで抱き締める。 「あの……っ、えっと……? 律……先輩……?」 小さな身体を震わせて、何をされたのか分からない様子の梓が呟く。 呟きながらも、梓の涙はとめどなく流れ続けている。 しゃくり上げながら、震える身体も治まる事がない。 今の私には梓の涙を止められない。震えも止めてやる事ができない。 梓の不安を止めてやれるのは、今の私じゃない。 だから、胸元に引き寄せた梓を、私は頭から包み込むように抱き締める。 強く強く、抱き締める。 まだ掛けてあげられる言葉は見つからない。 その代わりに、小さな梓を身体全体で受け止める。 小さな梓と同じくらい小さな私が、小さな身体で小さく包み込む。 どこまでも小さな存在の私達。 それでも、私達は小さいけれど、とんでもなくちっぽけな存在だけど、 信じてる事だって……、信じていたい事だってあるんだ。 「梓……。きっとさ……。 今の私が何を言っても、おまえの不安を消してはやれないと思う。 私は人を支えてあげられるタイプじゃないだろうし、 誰かの不安を消してあげられるくらい頼り甲斐のある部長でもないんだ。 逆に皆に支えられてばかりだしさ……」 やっと見付けた言葉が私の口からこぼれ出る。 でも、これは梓の耳元に囁いてはいるけど、梓だけに聞かせてる言葉でもなかった。 これは自分に言い聞かせてもいる言葉だ。 願いみたいなものだった。 祈りみたいなものだった。 私の胸の中で、梓は私の言葉を震えながら聞いている。 その震えを止めてやれる自信はない。 今の私に梓を安心させてあげる事はできないだろう。 私の気持ちを上手く伝える事もできないかもしれない。 でも……。 「でもさ、梓……。 こう言われるのは迷惑かもしれないけど、 私の勝手な勘違いかもしれないけど、一つだけ思い出してほしい事があるんだよ。 なあ、梓。 キーホルダーを失くしちゃった事は、梓も辛くて不安だったんだろう。 もっと早く気付いてやれなくて、悪かった。 私はさ……、こう言うのも情けないんだけど、 あんまり梓が私と目を合わせてくれないもんだから、梓に嫌われちゃったんだって思ってた。 それが不安で辛くてさ……、それで梓と話す勇気が中々持てなかったんだよな」 私の言葉を聞くと、腕の中の梓の震えが大きくなった。 その震えは不安が増したってわけじゃなく、自分の行為をはっと思い出したって感じだった。 「そんな……。そんな風に思われてたなんて……。 でも……、思い出してみたら、そう思われても仕方ない事を私は……。 すみません、律先輩! 私は律先輩の事を……、嫌いになってなんか……」 「いいよ」 言って、私はまた腕に力を込めて梓を抱き締める。 今話すべきなのは、梓が私を嫌ってるかどうかじゃない。 嫌われてたって、疎まれてたって、 それでも梓の悩みを晴らしてあげるのが、私のなりたい『自慢の部長』だと思うから。 勿論、梓に嫌われてなかったのは嬉しいけどな。 本当に泣き出してしまいそうなくらい嬉しいけど、それを噛み締めるのはまだお預けだ。 「いいんだよ、梓。その言葉だけで私は十分だよ。 キーホルダーを失くして、梓がそんなに不安に思ってくれたのも嬉しい。 キーホルダーを失くした自分が許せなくて、必死に探してたんだろうって事も分かる。 こんなにやつれちゃってさ……、こんなになるまで……。 キーホルダーを失くしたからって、私達がおまえから離れてくって思ったのか?」 「いいえ……、そんな事考えてなんか……。 でも……、でも……、ひっく、そんな事あるはずがないって思ってても……、 心の何処かで考えちゃってたのかも……しれません……。 先輩達を信じてるのに、だけど……、夜に夢で見ちゃうんです……。 キーホルダーを失くした私の前から……、先輩が離れていく夢を……。 そんな……、そんな自分が、嫌で、本当に嫌で……。 うっ、ううっ……!」 梓の涙がまた強くなる。 もしもの話だけど、キーホルダーを失くしたのが『終末宣言』の前なら、 梓はこんなにも不安にならず、涙を流す事も無かったんじゃないだろうか。 世界の終わりっていう避けようがない非情な現実。 誰だってその現実に大きな不安を感じながら、それをどうにか耐えて生きている。 普段通りの生活を送る事で、世界の終わりから必死に目を背けたり。 秘密にしていた事を公表する事で、別の非日常の中に身を置いてみたり。 そんな風に何かを心の支えにしながら、どうにか生きていられる。 梓の場合は多分キーホルダーがそれだったんだと思う。 小さいけれど、目にするだけで私達の絆を思い出せるかけがえの無い宝物。 それを失くしてしまった梓の不安は、一体どれほどだったんだろう。 私も自分が世界の終わりから逃げてる事に気付いた時は、吐いてしまうくらいの不安と恐怖に襲われた。 その時の私はそれをいちごや和に支えてもらえたけど、 梓はずっと一人でその不安に耐えて、自分を責め続けていたんだ。 こんなにやつれるのも無理もない話だった。 小さい事だけど、きっと私達はそんな小さい事の積み重ねで生きていられる。 小さい物でも、失ってしまうと不安で仕方なくなるんだ。 だけど、不安になるという事はつまり……。 「なあ、梓。 話を戻させてもらうけど、一つだけ思い出してほしい」 「は……い……?」 「軽音部、楽しかったよな? そりゃ普通の部とはかなり違ってたと思うけど、でも、すごく楽しかったよな?」 「あの……?」 「私は楽しかったよ。 ムギのおやつは美味しいし、ライブは熱かったし、楽しかった。 唯は面白いし、澪は楽しいし、ムギはいつも意外な事をやってくれるしな。 二年になって梓って生意気な後輩もできた。 楽しかったんだよ、本気で……。 軽音部、楽しかったよな……? 楽しかったのは、私だけじゃ……ないよな……?」 私の言葉の勢いが弱まっていく。 その私の姿を不審に思ったんだろう。 梓が少しだけ自分の腕を動かし、私の背中を軽く撫でてくれる。 「律先輩……? 急に何を……?」 「ああ、ごめんな……。ちょっと……さ。 梓はどうだったんだろうって思ってさ……」 「私……ですか……?」 「私ってさ、結構一人で空回りしちゃう事が多いだろ? 部長としても、役不足だったと思うし……。 でも、楽しかった事だけは、本当だったって信じてる。 ……信じたいんだ。それだけは譲りたくないんだ。 だから、梓に思い出してほしいんだよ。 軽音部が楽しかったのかどうかを。私達のこれまでを。 今の私に梓の不安を消し去ってあげる事はできないと思う。 梓の不安を消せるのは梓だけだし、私にできるのはその手助けだけだ。 それも、その手助けができるのは今の私じゃなくて、梓の中の昔の私だけだと思うんだよ」 「昔の……律先輩……?」 「これまで私が梓に何をしてあげられたか。 梓をどれだけ楽しませてあげられたか……。それを思い出してほしい。 自信なんてこれっぽっちも無いけど、ほんの少しでも手助けになればいいと思う。 なってほしいと思う。 私じゃ役不足だと思うなら、私以外とのこれまでを思い出してくれ。 澪やムギ、唯と過ごしてきたこれまでの自分を思い出してくれ。 そうすれば……、少しはその不安も晴れるんじゃないかって……、思うんだ……」 今の私に梓の不安を晴らすだけの力が無いのは、すごく無念だ。 やっぱり私は、梓にとっていい部長じゃなかったんだろう。 だけど、梓と笑い合えたあの頃の事は嘘じゃなかったはずだ。 梓も楽しんでくれていたはずだ。 私はいい部長ではなかったけど、いい友達としては梓と関係してこれたはずだ。 そのはずなんだって……、信じたい。 不安な自分を奮い立たせるのは、自分の中のかけがえのない過去。 今の自分を作り上げた誰かと積み重ねてきた楽しかった思い出だと思うから。 私は梓にもそれができると信じるしかない。 それができるくらいには、私は梓と信頼関係を積み重ねてこれたんだって信じるしかない。 そもそも不安や罪悪感ってのは、そういうもののはずなんだ。 楽しかったから、かけがえがないものだから、失うのを不安になってしまうんだ。 失ってしまった自分に罪悪感を抱いてしまうんだ。 失くすものが無ければ、大切なものが無ければ、不安なんて感じるはずがない。 それを梓が気付いてくれたなら……、 いや、気付いてはいるだろうけど、心から実感してくれたなら……。 その涙を少しは拭う事ができるかもしれない。 私は小さな身体で小さな梓を強く抱き締める。 それは小さな私にできる世界の終わりへの小さな反抗でもあった。 まだその日が来てもいないのに、世界の終わりってやつは色んな物を私達から奪おうとする。 小さなものから取り囲んで奪い去っていく。 そうはいくもんか。 もうすぐ死んでしまうとしても、それまでは何も奪わせてやるもんか。 過去も、現在も、未来だって、奪わせてなんかやらない。 私から、梓を奪わせたりしない。 不意に私の腕の中の梓が震えを止めて、小さく言った。 「そうですね。 律先輩じゃ役不足ですよ」 一瞬、頭の中が真っ白になった。 梓じゃなくて、私の身体が震え始める。止められない。 全身から何かを成し遂げようとしてた気力が抜けていくのを感じる。 駄目だった……のか……? 私じゃ、梓のいい部長どころか、いい友達にもなれなかったってのか……? 私の小さな反抗は脆くも崩れ去ったってのか……? 信じたかった私の思い出は、全部無意味だったのか……。 梓は別に私を嫌ってはいなかった。 でも、力になってやれるほど、私は信頼されてもいなかったんだ。 抱き締めていた梓を、私の胸から解放する。 もう私に抱き締められる事なんて、もう梓は求めないだろう。 私には梓の不安を晴らしてやれないし、涙も止められないし、震えも治められない。 私は梓に……。 信じさせたかった。 信じられたかった。 信じていたかった。 でも、もう私は……、私は……。 身体を離したけれど、私はそこにいる梓の顔を見る事ができない。 その場から逃げ出したくなる。 もうこの場には居られない。 「梓、ごめ……ん……」 喉の奥から絞り出して言って、 振り向きもせずに逃げ出そうとして……。 そんな私を華奢で柔らかい何かが包み込んだ。 何が起こったのか、数秒くらい私には分からなかった。 梓に抱き締められたんだって気付いたのは、それからしばらく経ってからの事だ。 私は私が梓にしたように、頭から胸の中に強く抱き留められていた。 「あず……さ……?」 何も分からなくて、間抜けな声を出してしまう。 ただ一つ分かるのは、抱き締められる一瞬前、梓が笑っていた事だった。 涙が止まったわけじゃない。 涙を止められたわけじゃない。 でも、梓は笑っていた。泣きながら、笑っていたんだ。 今梓の胸の中にいる私にとっては、もう確かめようもない事だけど……。 「ありがとうございます、律先輩……。 こんな面倒くさい後輩なのに、こんなに大切に思ってくれて、 私、嬉しいです」 「でも、梓、おまえ……。 えっと……、私を……」 言葉にできない。 梓の真意が掴めなくて、曖昧な言葉しか形にできない。 梓が明るい声を上げた。 「もう……、律先輩ったらこんな時にもいつもの律先輩で……。 真面目な話をしてるのに、普段通りのいい加減で大雑把な律先輩で……。 そんな律先輩を見てると……、何だか私、嬉しくなってきちゃうじゃないですか。 不安になってなんか、いられなくなっちゃうじゃないですか……」 「大雑把って、おまえ……。 いつもはともかく、さっきまではそんな変な事言ったつもりは……」 「もう一度、言いますよ。 律先輩は役不足です。 私の不安を晴らす役なんて、律先輩には役不足過ぎます」 「だから、そんなはっきり言うなよ……」 少しやけくそになって、吐き捨てるみたいに呟いてみる。 梓が明るい声になったのは嬉しいけど、そこまで馬鹿にされると釈然としない。 でも、梓はやっぱり明るい声を崩さなかった。 「ねえ、律先輩? 役不足の意味、知ってますか?」 「何だよ……。 その役を務めるには、実力が不足してるって事だろ……?」 「もう、やっぱり……。 受験生なんだから、ちゃんと勉強して下さいよ、律先輩。 役不足って、役の方が不足してるって意味なんですよ?」 「役の方が不足……って?」 「もういいです。これ以上は家で辞書で調べて下さい」 「何なんだよ、一体……」 「とにかく……、ありがとうございます、律先輩……。 私……、嬉しかったです。 律先輩との思い出……、思い出してみるとすごく楽しかった。 軽音部に入ってよかったって、思えました……」 まだ梓が何を言っているのかは分からない。 でも、梓の声が明るくなったのは何よりで、私の方も嬉しくなった。 梓の変な言葉も、まあ、いいか、と思える。 私の小さな反抗は、少しだけ成功したって事でいいんだろうか。 今の私も、過去の私も、結局は梓の涙を止める事はできなかった。 でも、少なくとも笑顔にしてあげる事はできたみたいだった。 それだけでも今は十分だ。 ……役不足の意味は、後で純ちゃんにでも聞いてみる事にしよう。 24
https://w.atwiki.jp/83452/pages/16158.html
自信満々に唯が頷く。 その様子を見る限り、少なくとも冗談でこの写真を選んだわけじゃなさそうだ。 「りっちゃんらしい」って、そう言われちゃ私の方としても何も言えなくなる。 恥ずかしながら、確かに私らしいとは自分で思わなくもないし……。 仕方が無い。 唯だって真剣にこの写真を選んだんだろう。 納得はいかんが、これが私達らしい姿だってんなら、私もそれをそのまま受け入れよう。 でも、まだ納得できない……と言うより、もう一つだけ分からない疑問が残っていた。 「それで、唯? 何でこの写真は私達が一年生の頃の写真なんだ? 梓の写真はいいとして、私達が一年の頃の写真じゃなくても他に色々あっただろ?」 「分かってないね、りっちゃん。 これはね、私達とあずにゃんが違う学年で産まれて来ちゃって、 学校で同じ行事を過ごす事はできなかったし、私達が先に卒業もしちゃうけど……。 だけど、学年は違っても、 この写真みたいに心は一緒に居る事ができるからって、 いつまでも仲間だからって、そういう意味を込めて作った写真なんだよ」 「おー、すげー……」 「……って、憂が言ってました!」 「私の言ったすげーを返せ!」 声を張り上げながら、私は妙に納得もしていた。 考えてみれば、憂ちゃんも梓と同じく後に残される立場だ。 妹だから当たり前だけど、憂ちゃんは梓以上に何回も唯に取り残されてきたんだ。 その寂しさを知ってる憂ちゃんだからこそ、 梓の事を心配できたし、梓が一番喜ぶだろう写真の選択もできたんだろうな。 まったく……、梓の奴が何だか羨ましいな。 憂ちゃんにも純ちゃんにも心配されて、 軽音部の皆から気に掛けられて……、それだけ誰からも大切にされてるって事なんだろうな。 私は少しだけ苦笑して、手に持っていた写真を唯に返す。 「さ、そろそろ本当に帰ろうぜ。 その写真、早く梓に渡してやれ。きっと喜ぶぞ。 憂ちゃんが言ってた云々は……、まあ、おまえが言いたければ言えばいいんじゃないか。 色々と台無しな気もするが、それはそれで唯らしいしな」 言ってから、私は和の席から立ち上がろうとして……、 急に唯に制服の袖を引かれた。 何かと思って目をやると、 「ほい」と言いながら唯が写真を私にまた渡そうとしていた。 「何だよ、私にその写真を梓に渡させる気か? そんなの駄目だよ。 おまえ自身が梓に手渡す事に意味があるんだからさ」 諭すみたいに私が言うと、急に真剣な表情になった唯が頭を横に振った。 その唯の表情はこれまでのどの表情よりも寂しそうに見えた。 「違うよ、りっちゃん。 あずにゃんに渡す写真はちゃんとあるから大丈夫。 憂がパソコンで何枚も作ってくれたから、あずにゃんにはそっちを渡すよ。 だからね、その写真はね……、りっちゃんのなんだよ?」 「私……の……?」 「りっちゃんも私達の仲間でしょ? それとも……、私達といつまでも仲間で居たくない? 高校生活が終わったら……、 ううん、おしまいの日が来たら、私達の仲間関係はおしまいになっちゃうの?」 「そんな事……、あるわけないだろ……? 私達はいつまでも仲間だよ、唯……」 「……だよね? だから、私はりっちゃんにもこの写真を持ってて欲しいんだ。 実はね、この写真、あずにゃんのためだけじゃなくて、 りっちゃんにも渡したくて作ったんだよ?」 予想外の唯の言葉に、私は何も言えなくなる。 これまで考えてもなかった展開に、自分の胸の音が大きくなっていくのを感じる。 唯は寂しそうに微笑んだまま、続ける。 「りっちゃんさ……、最近、すっごく悩んでたでしょ? あずにゃんの事もだけど、他にも多分色んな事で……。 分かるよ。最近のりっちゃん、すごく辛そうだったもん。 勿論、あずにゃんの事は心配だったけど、私はりっちゃんの事も心配だったんだ。 あずにゃんと同じくらい、りっちゃんの事も大切だから……」 別に嫌われてると思ってたわけじゃないけど、唯の発言は衝撃的だった。 唯は一緒に居ると楽しくて、すごく大切な友達だけど、 そんな風に考えていてくれるなんて思ってなかった。 私の事をそんなに見てくれてるなんて、考えてなかった。 考えるのが恐かった。 だって、そうだろ? 仲がいいと思ってる友達の中での自分の位置がどれくらいかなんて、恐くてとても考えられない。 だから、私はその辺について深く考えないようにしてた。 梓の件でだって、例え梓に嫌われてても、自分が梓を大切に思ってればそれでいいんだと思ってた。 私が誰かの大切な存在になれるだなんて、そう思うのは自意識過剰な気がしてできなかった。 でも、唯は私の事を、私が思う以上に見てくれていた。 私の事を大切だと言ってくれた。 それだけの事で、胸の高鳴りが止まらない。 言葉に詰まる。 泣いてしまいそうだ。 そうして何も言わない私を不安に思ったのか、唯が自信なさげに呟く。 「私、軽音部の部長でいてくれたりっちゃんにすごく感謝してるんだ。 りっちゃんが居なきゃ音楽を始める事なんてなかったと思うし、 澪ちゃんや、ムギちゃん、あずにゃんやギー太とだって会えてなかったと思う。 私の高校生活、本当に楽しかったのはりっちゃんのおかげなんだ。 だからね、私はりっちゃんの事が大好きだよ。 大好きだから心配で……、とっても心配で……。 でも、今日久し振りに元気そうなりっちゃんを見られて、すごく嬉しかった。 りっちゃんは……、どう? 私にこんな風に思われて、迷惑じゃない?」 迷惑なわけがない。 でも、口を開けば泣いてしまいそうで、言葉にできない。 写真を受け取ってから私は和の席にまた座り込んで、 今にも涙が流れそうになりながらも、それでも唯の瞳だけはまっすぐに見つめる。 これだけで唯に伝わるだろうか? 泣いてしまいそうなほど嬉しい私の想いを伝える事はできただろうか? 誰からも大切に思われてないって思ってたわけじゃない。 それほど悲観的な考え方はしてないつもりだ。 でも、暴走しがちで皆に迷惑ばかりかけてる私が、こんな私が大切に思われてるなんて……。 それが、こんなにも、嬉しい。 それを気付かせてくれたのは唯だ。 唯は単純で、正直で、普通なら照れて言い出せない事でも平然と言い放つ子で……。 そんなまっすぐに感情や想いを表現してくれる子だから、唯の言葉には何の嘘も無い事が分かる。 唯以外の皆も私の事を考えてくれてるって気付ける。 私達はいつまでも仲間なんだって、確信できる。 「迷惑じゃ……ない。あり……」 やっぱり言葉にならない。 自分の想いを言葉にして伝えられない。 でも……。 唯は嬉しそうにいつもの笑顔を浮かべて、私の右手を両手で包んでくれた。 ○ 唯には先に部室に行ってもらって、私は少しだけ教室に残る事にした。 胸が詰まって、皆の前には顔を出せそうになかったからだ。 まだ泣いてるわけじゃないけど、ちょっとした事で大声で泣き出してしまいそうだ。 それは悲しみの涙じゃないけれど、皆の前で見せるのはちょっと恥ずかしかった。 ネタや悲しい涙ならともかく、 嬉しさから出る涙はあんまり人前で見せたいもんじゃないからな。 今頃、唯は謝る梓を笑って許して、いつもと変わらず梓に抱き付いてる事だろう。 いや、いつもとは言ってみたけど、そういえばこの一週間、唯は梓に抱き付いてない気がする。 梓が悩む姿を見せるようになってから、多分、一度も抱き付いてないはずだ。 自由に見える唯だって、空気が読めないわけじゃない。 梓が笑顔を取り戻せるようになってからじゃないと抱き付けなかったんだろう。 だから、唯は今、笑顔を取り戻した梓に存分に抱き付き、強く抱き締めてるに違いない。 これまで抱き付けなかった分、そりゃもう強く、強く……。 梓もそんな唯の姿に安心して、私と同じように嬉しさの涙を流しそうになってるかもな。 もしかしたら、唯だけじゃなく、ムギも梓に抱き付いてるかもしれない。 ムギだって梓の事を心配してたんだし、ムギが梓に抱き付いちゃいけないなんて決まりも無い。 唯が嬉しそうに梓に抱き付いてるのを見ると、私だってたまに梓に抱き付きたくなるもんな。 三人はそうして、今まで心を通わせられなかった時間を取り戻してるはずだ。 世界の終わりを間近にして、それでもギリギリでいつもの自分達を取り戻す事ができるはずだ。 できれば私もその場に居たかったけど、そういうわけにもいかなかった。 それは三人に涙をあんまり見せたくないからでもあったけど、 それ以上に私には最後に伝えなきゃいけない答えがまだあったからだ。 梓の悩みをきっかけに、私達放課後ティータイムは深く自分達の事について考えられた。 長い時間が掛かったけど、皆がそれぞれの答えを出して、 それぞれが世界の終わりに向き合って、どう生きていくか決める事ができた。 変な話だけど、梓が悩んでくれた事で、私達はまた強く一つになれたんだと思う。 だから、私がこれから伝えなきゃいけないのは、単なる個人的な問題の答えだ。 別にその答えがどんなものでも、私達が放課後ティータイムである事は変わらない。 必ず伝える必要がある答えでもない。 答えを伝えなくても、曖昧なままでも、私だけじゃなく、 あいつだって最後まで笑顔のまま、放課後ティータイムの一員でいられるはずだ。 曖昧なままで終わらせてもいい私達の最後の個人的な問題。 それはそれで一つの選択肢だけど、私はそれをしたくはなかった。 馬鹿みたいな答えしか出せてないけど、私はあいつにそれを伝えたい。 それが、私と私達が、最後まで私と私達でいられるって事だから。 だからこそ、私は教室に残ったんだ。 二人の関係にとりあえずでも、結論を出してみせるために。 予感があった。 いや、予感と言うより、経験則って言った方が正しいかもしれない。 経験則ってのは、経験から導き出せるようになった法則って意味でよかったはずだ。 その意味で合ってるとして、私はその経験則から教室に残った。 あいつは登校した後、間違いなく最初にここに来る。 部室に顔を出すより先に、私と二人きりで会おうとする。 皆の前で笑顔でいられるために、最初に私と話をしておきたいって考える。 それで何処に私を呼びだそうか考えるために、とりあえず教室に足を踏み入れるはずだ。 ……って私が考えるだろう事を、あいつは分かってる。 分かってるから、今、あいつは自分を待つ私に会いに教室に向かっている。 そうして教室に向かって来るあいつを、私は待つ。 そんな風に私達はお互いが何を考えているか分かってしまっている。痛いくらいに。 だから、待つ。 心を静め、高鳴る胸を抑えて、自分の席に座ってその時をじっと待つ。 多分、その時はもうすぐそこにまで迫ってる。 それから数分も経たないうちに。 耳が憶えてるあいつの足音が近付いて、 教室の扉が開いて、 少し震えた声が、 教室に響いた。 「……おはよう、律」 ほら……、な。 私は立ち上がり、声の方向に視線を向ける。 震えそうになる自分の声を抑えながら、言った。 「よっ、澪。 ……久しぶり」 30
https://w.atwiki.jp/83452/pages/16144.html
○ 結構長い時間、自転車の後ろで揺られて、自宅に戻った私を誰かが待っていた。 私の家の前、二つの影が寄り添って立っている。 誰だろう、と思って目を凝らすと、それは和と唯だった。 こんな時間に何の用なのか見当も付かないけど、少なくとも変質者の類じゃなくて安心した。 私は自転車から降りて、二人に近付いて話し掛けようとする。 瞬間、唯が予想外な行動を取って、私は言葉を失った。 行動自体は普通だったんだけど、普通なら唯が取るはずもない行動だったからだ。 だって、唯は膝の前で手を揃え、深々とお辞儀をしたんだ。 こんな事されたら、何かの異常事態じゃないかと思えて、硬直するしかないじゃないか。 そんな私の様子を分かっているのかどうなのか、 唯は頭を上げてから、柔らかく微笑んで続けた。 「こんばんは、律さん。 こんな時間にごめんなさい。今、お時間よろしいですか?」 そこでようやく私は気付いた。 唯が取るはずもない行動を取るのも当然だ。 和の隣で私に頭を下げたのは唯じゃなく、 髪を下ろした唯の妹の憂ちゃんだったんだ。 ○ 「ごめんね、待たせて」 シャワーを浴びて、少しの腹ごしらえを終えてから、 私は私の部屋で待っててもらっていた憂ちゃんに声を掛けた。 「いいえ、こちらこそごめんなさい、律さん。 こんな時間に非常識だと思いますけど、律さんにどうしても話したい事があったんです」 申し訳なさそうな顔で憂ちゃんが頭を下げる。 私はそれを軽く微笑む事で制した。 私の方こそ、こんな時間に来てくれた人を待たせるなんてとんだ非常識だ。 でも、流石に空腹な上に汗まみれで話を聞く方が何倍も失礼だったし、 私の方も多少はマシな状態になってから、憂ちゃんの話を聞きたかった。 こんな時間に真面目で良識的な憂ちゃんが来てくれたんだ。 きっとよっぽどの事情があるんだろう。 少なくとも、疲れ果てて身の入らない状態で聞き流せる話じゃない事だけは確かだった。 ちなみに現在、和はリビングで聡と話をしている。 和はボディガードとして憂ちゃんに付き添ってきただけらしく、 私と憂ちゃんの話が終わるまでリビングで待っていると言っていた。 風呂上りにリビングをちょっと覗いてみた時、意外にも二人の話は盛り上がっていた。 聡がコンプリートしたらしいあの大作RPGは和の兄弟もプレイしているそうで、 攻略法やストーリー、キャラクターを演じている声優に至るまで幅広く会話してるみたいだった。 澪以外の女子と話す弟の姿は新鮮で、照れた様子で年上の女と会話する姿が可愛らしくて、 姉としてはいつまでも見ていたくはあったけど、そういうわけにもいかない。 少し後ろ髪を引かれる気分ながら、 どうにかその誘惑を振り切って、こうして私は自分の部屋に戻って来たわけだ。 「えっと……、ですね……」 何だか緊張した面持ちで憂ちゃんが目を伏せている。 とても話しにくい、だけど、話したい何かがあるんだろう。 私は律義に座布団に正座してる憂ちゃんの手を取って、私のベッドまで誘導する事にした。 少し躊躇いがちではあったけど、 すぐに私の考えが分かってくれたらしく、憂ちゃんは私のベッドに腰を下してくれた。 その横に私も腰を下ろし、憂ちゃんと肩を並べる。 憂ちゃんとこんなに近くで話をした事はあんまりないけど、 多分、今回の憂ちゃんの話はこれくらい近い距離で話し合うべき事のはずだと思った。 「それでどうしたの、こんな時間に? 唯の事?」 私と憂ちゃんの間に他に話題が無いわけじゃない。 それでも、私は唯の事について訊ねていた。 これまでも私と憂ちゃんの会話で一番話題に上っていたのは唯の事だったし、 憂ちゃんがこんな真剣な表情で緊張しているなんて、その緊張の理由は唯以外に絶対にない。 「はい、お姉ちゃんの事なんですけど……、 あのですね……、明日……、いえ、もう今日ですね。 今日……なんですけど、お姉ちゃん、学校には行かないそうなんです」 「……来ない……のか?」 呟きながら、不安になる。呼吸が苦しくなるのを感じる。 唯も何かを悩んでいたんだろうか。 それとも、私が唯の気に障る何かをしてしまったんだろうか。 少しずつ、一人ずつ、軽音部から去ってしまうのか? 澪、唯、次は梓、最後にムギと去って、私だけが部室に取り残されちゃうのか? その私の不安を感じ取ったんだろう。 憂ちゃんが軽く頭を振って、隣にいる私の瞳を覗き込んで言ってくれた。 「あ……、違うんです。 律さんが何かしたとか、軽音部に行きたくないとか、そんな事はないんです。 お姉ちゃん、ずっと……、今でも勿論、軽音部の事が大好きなんですよ? いいえ、違いますね……。 大好きって言葉じゃ言い表せないくらい、 お姉ちゃんの中では軽音部の事が大きい存在なんだと思います」 だったら、唯はどうして? ついそう訊きそうになってしまったけど、私はどうにかその言葉を押し留めた。 憂ちゃんはそれを話しに来てくれたんだ。 急いじゃいけない。焦っちゃいけない。 どんなに時間が無くても、憂ちゃんが言葉にしてくれるまで、それを待つだけだ。 それに急ぐ理由は私の中から一つ減っていた。 さっきシャワーを浴びる前、「先に梓の家に電話させて」と憂ちゃん達に伝え、 私が梓の家に電話しようと受話器を上げた時、憂ちゃんは首を傾げながら言ったんだ。 「梓ちゃんの家ならついさっき行って来ましたけど、梓ちゃんに何かご用なんですか?」 憂ちゃんの言葉に私は張り詰めていた糸が切れて、しばらくその場に座り込んだ。 ひとまずは安心できる気分だった。 憂ちゃんが言うには、私の家に来る二十分前には梓の家に行って、 話をしてきたばかりなんだそうだった。 夜道に私が見た梓の姿は単なる見間違いだったのか、 それとも何かの用事が終わった後の帰り道の梓を見たのか、 色んな可能性がありはしたけど、そんな事はどうでもよかった。 今は梓が無事に自分の家にいてくれるだけで十分だった。 私は上げた受話器を元に戻し、 「用事はあったけど、やっぱり学校で会った時でいいや」と憂ちゃん達に伝えた。 梓の悩みについては、電話で話すような内容でもない。 直接あいつから聞き出さないといけない事だ。 今日、学校で会ったら、それを梓に聞こうと思う。 もしも本当に梓に嫌われていたとしても構わない。 それでも私は梓の悩みの力になるべきなんだ。 私はあいつの先輩で、軽音部の部長で、嫌われていてもあいつが大切なんだから。 そういうわけで、今の私は焦ってはいない。 時間が無い私だけど、焦る事だけはしちゃいけない気がする。 焦ると正常な判断ができなくなる。 当然の事だけど、私は少しずつ身に染みてそれを理解し始めていた。 はっきりとは言えないけど、澪との事も焦っちゃいけない気がする。 いや、違うな。 焦っちゃいけなかったんだ。 あの時、私は焦ってしまってたんだ。 だから……。 小さく溜息を吐いて、私は憂ちゃんの次の言葉を待つ。 今は梓の事、澪の事より、目の前の憂ちゃんの事だ。 じっと憂ちゃんの瞳を覗き込んで、話してくれるのを待ち続ける。 少しもどかしい時間だったけど、それはきっと私達に必要な時間だった。 しばらく経って……。 考えがまとまったのか、憂ちゃんがまっすぐな瞳で私を見つめながら口を開いた。 「お姉ちゃん、軽音部の事がすごく大切なんです。 軽音部の事も、律さんの事も、大切で仕方が無いんだと思います。 それでも、今日は部に顔を出さないって、お姉ちゃんは言ってました。 水曜日は……、「今日一日は憂と二人で過ごしたいから」って言ってくれたんです……」 そういう事か、と私は思った。 残り少ない時間、唯はその内の一日を大切な妹と過ごす事に決めたんだ。 それはそれで構わなかった。 軽音部の事も大切ではあるけど、私は唯の選択肢を尊重したい。 家族と過ごしたいのなら、私達に遠慮なんかせずにそうするべきなんだ。 「ごめんなさい、律さん……」 言葉も弱く、辛そうな表情に変わりながらも、 視線だけは私から逸らさずに憂ちゃんが言ってくれた。 本当に申し訳ないと思ってくれてるんだろう。 でも、本当に謝るべきなのは私の方だった。 こんなにお互いを大切に思い合ってる姉妹に気を遣わせるなんて、 私の方こそ謝るべきなんだ。 そう思って私は口を開いたけど、その言葉より先に憂ちゃんがまた言った。 「私の事は気にしなくてもいいって、お姉ちゃんに何度も伝えたのに、 お姉ちゃんは絶対に私と過ごすって言ってくれて……。 ライブの準備がとても楽しいって、お姉ちゃん言ってたのに、それなのに……。 それが律さん達に申し訳ないのに、本当はすごく嬉しくって……。 そんな私が嫌で、せめて今日お姉ちゃんが軽音部に行かない事だけは、 皆さんに直接伝えたいと思って……。 それが私にできる精一杯で……。 ごめんなさい、律さん。本当にごめんなさい……」 「唯……は今、どうしてる?」 「最初……、本当はお姉ちゃんが皆さんの家を直接回るって言ってました。 でも、無理を言って、私と手分けして回ってもらう事にしたんです。 それで私は梓ちゃんと律さんの家に、 お姉ちゃんは紬さんの家と澪さんの家に、直接話しに行く事になったんです。 先に紬さんの家に向かったから、多分、今は澪さんの家で話をしてると思います」 「一人で?」 「いえ、それは大丈夫です。 お父さんが車で送ってくれてますから。 私の方はお母さんが付き添いで来てくれるはずだったんですけど、 うちのお母さん、ボディガードにはちょっと頼りなくて……。 それで、お姉ちゃんが和さんに電話で私の付き添いを頼んでくれたんです」 「そっか……。だったら、二人とも安心だな」 「それで……、実はですね、律さん……」 憂ちゃんの顔が辛そうな表情から、何かを決心した表情に変わる。 憂ちゃんは決して弱い子じゃない。 強い子ではないかもしれないけど、唯の事が関係するなら強くいられる子だ。 つまり、これから唯に関する大切な話を始めるんだろう。 「私、最初は軽音部の事が好きじゃありませんでした」 「そうなんだ……」 憂ちゃんの言葉に、意外と驚きはなかった。 何となくそんな気がしていた。 仲のいい姉妹の間に入って、 二人の関係を邪魔してしまっていいのかって思わなくもなかったんだ。 憂ちゃんは続ける。 「少しの時間、部活に行ってるだけなら気になりませんでした。 でも、少しずつ……、どんどんお姉ちゃんが家に帰ってくる時間が遅くなって……。 お休みの日も家にいてくれる事が少なくって、それが嫌で……。 軽音部の部長の会った事もない『りっちゃん』って人が嫌いになりそうでした。 確かお姉ちゃんが一年生の頃のテスト勉強の日だったと思うんですけど、 初めてその『りっちゃん』……、律さんに会って、その顔を見てるのが辛くて……。 それでついゲームの律さんとの対戦で本気を出しちゃったんです。 『これ以上、お姉ちゃんを私から取らないで』って、そんな気持ちで……。 あの時はごめんなさい……」 「えっ? あれってそんな意図がある重大な戦いだったの? いや、マジで強いなー、とは思ってたんだけど……」 思いも寄らなかった真相に私は驚きを隠せない。 勿論、多少は大袈裟に言ってるんだろうけど、人には色んな考えがあるもんなんだな……。 憂ちゃんがその私の様子に表情を緩める。 「でも、学園祭で初めてのお姉ちゃん達のライブを見て、 ライブ中のお姉ちゃんはすっごく格好良くて、すっごく楽しそうで……。 私……、思ったんです。 軽音部のお姉ちゃんが、今までのお姉ちゃんよりもずっと好きだって。 それから、お姉ちゃんが大好きな軽音部の事も、好きになっていきました。 もう、軽音部じゃないお姉ちゃんなんて、考えられないです。 私、軽音部の……、放課後ティータイムのお姉ちゃんが大好きです。 それを私、律さんにずっと伝えたかったんです。 軽音部の部長でいてくれて、ありがとうございます。 お姉ちゃんをもっと好きにさせてくれて、本当にありがとうございます」 憂ちゃんが頭を下げながら、私の手を握る。 私の方こそ、お礼を言いたい気分だった。 大好きなお姉ちゃんと一緒にいさせてくれてありがとう、と。 最初こそ頼りない初心者だったけど、唯はもう軽音部に無くてはならない存在だ。 軽音部はあいつの才能に引っ張られて機能していると言っても過言じゃない。 唯がいたからこそ、軽音部はこんなに楽しく、大切な部活にできた。 それは私達だけじゃどうやっても辿り着けなかった境地だろうし、 例え他にギター担当の誰かが入部して来てくれていたとしても、やっぱり無理だったと思う。 三年間、こんなに楽しかったのは、唯がいたからこそ、だ。 だから、私は唯に、憂ちゃんに感謝しなきゃいけない。 同時にやっぱり申し訳なくなった。 私は目を伏せたかったけど、どうにか耐えて憂ちゃんの瞳から目を逸らさずに言った。 「ありがとう、憂ちゃん。 そんなに私達を好きでいてくれて、本当に嬉しいよ。 でも……、これまではそれでよかったかもしれないけど、 この状況でも、それでいいの? 『今日一日は一緒にいる』って事は、逆に言うと今日一日って事でしょ? 世界の終わりを間近にして、たった一日だけで本当にいいの?」 憂ちゃんはその私の言葉に微笑んだ。 無理をしているわけでもなく、強がりでもなく、本当に心からの笑顔に見えた。 「違いますよ、律さん。 『一日だけ』じゃありません。『一日も』ですよ、律さん。 こんなおしまいの日まで残り少ないのに、 お姉ちゃんはそんな貴重な時間を、私に『一日も』くれるんです。 私はそれがすっごく……、 すっごく嬉しいです……!」 そう言った憂ちゃんの笑顔は輝いていた。 眩しいくらいの笑顔。 そんな笑顔をさせる唯の時間を、私が一日以上も貰うんだと思うと少し震えた。 参ったなあ……。 絶対にライブを成功させなくちゃならなくなったじゃないか……。 恐いわけじゃないし、重圧に負けそうってわけでもない。 これは武者震い……、とりあえずはそういう事にしておこう。 何はともあれ、私は私のためにも、憂ちゃんのためにも、 私達は何としてもライブを成功させなくちゃならない。 ふと思い立って、私は隣に座る憂ちゃんの肩を抱き寄せて囁いた。 「成功させるよ。 最後のライブ、絶対に成功させる。 憂ちゃんに、これまで以上に格好いい唯の姿を見せたいからさ」 憂ちゃんは私の腕の中で、 「はい」と、笑顔で頷いてくれた。 16
https://w.atwiki.jp/83452/pages/16140.html
○ それから私は、澪と最後のライブについて少しだけ話す事にした。 今日会った和にライブの会場を用意してもらっている事は話したけど、 和に口止めされてた事もあって、ライブの日付と会場が講堂だって事は話さなかった。 和が言うには、講堂の使用届自体は完璧に受理したんだけど、 一介の生徒会長程度の権限じゃ、非常時には講堂を会場として用意出来ないかもしれないらしい。 非常時ってのは、世界の終わりの前に災害や暴動が起こった時の事だ。 確かにそんな事が起こってしまったら、講堂でライブなんてとてもできないだろう。 会場が確保できるかどうかの返事は、最低でも予定日の二日前までは待ってほしいとの事だった。 皆をぬか喜びさせたくないから、と和は真剣な表情で言っていた。 別にいいんだけどな、と私は思う。 もしも講堂が使えなくなったとしても和の責任じゃないし、 講堂を用意しようと提案してくれただけでも嬉しかった。 講堂が使えなくたって、唯達だってぬか喜びだなんて思わないだろう。 でも、和としてはそれだけは避けたいらしかった。 少しでも唯が悲しむ可能性のある事はしたくないんだろう。 本当に唯の事が大切なんだな……。 それが何だか嬉しい。 そんなわけで会場と日付については隠しながら、 私は澪と最後のライブについてどうにか話を進める。 「最後のライブか……。 ちゃんと練習してるんだろうな、律?」 言葉は厳しかったけど、そう言った澪の唇の形は笑っていた。 どうもからかってるつもりらしい。 やれやれ。 そういう態度に対しては、私もこのキャラを使わざるを得ない。 「んまっ、失礼ね、澪ちゃん。 私の練習は完璧でしてよ。 そう言う澪ちゃんこそ、新曲の歌詞は完成してるのかしらん?」 「うっ……」 痛い所を突かれたって感じの表情を澪が見せる。 私は苦笑して、軽く澪の頭に手を置いた。 「おいおい……。 まだ出来ないのか、新曲の歌詞?」 「うん……。 どうしても納得のいく歌詞が書けなくてさ……」 「まあ、曲はもう出来てるし、 歌うのは澪の予定だから焦る事はないんだけど……。 そんなに悩む歌詞なのか?」 「だって、私達の最後の曲じゃないか。 最後に相応しい悔いの無い曲を作りたいんだよ。 私達の集大成って言えるみたいなさ……」 「そっか……」 澪がそう言うんなら、私から言える事は何もなさそうだ。 私は作詞の専門家じゃないし、甘々ながら澪の歌詞は観客に好評なんだ。 私があれこれ言うより、ギリギリまで澪に悩んでもらった方が、いい歌詞ができるだろう。 そうは思ったんけど、私は澪に一つだけ伝える事にした。 伝えた方がいい事だと思ったからだ。 「なあ、澪」 「どうしたの、律?」 「私には作詞はよく分かんないし、 お節介だとは思うけど言わせてもらうよ。 多分だけどさ……、最後とか集大成とか、 そういう事は考えなくていいんじゃないか?」 「でも……、最後の曲なんだよ?」 「いや、よくあるじゃん? 歌手が「私の集大成としてこの歌詞を書きました!」って言う曲。 ああいう曲って大抵が今までの曲の歌詞をつぎはぎしたり、 完結してた前の曲の続きの曲を蛇足で作ったりで微妙だったりするんだ。 過去の曲に引きずられまくってるんだよな。 お祭り曲としてはアリだと思うけど、そういうのは集大成とは違うと思うんだ」 「それは……、そうかもな。 思い当たる曲は何曲もあるし、作詞してる身としては耳に痛いな……」 「大切なのは過去よりも今なんだって私は思うな。 こう言うのも何だけど、最後の曲とは言っても単なる完全新曲のつもりでいいはずだよ。 前の曲なんて関係なくて、今の自分に作詞できる精一杯の歌詞でいいんだよ」 「驚いた。律も色々と考えてるんだな……」 「ふふふ。もっと褒めたまえ」 「いや、本当にすごいよ、律。 私、そんな事、考えもしなかったから」 珍しく澪が私に賞賛の視線を向けて来る。 自分で「褒めたまえ」と言った身だけど、 そこまで褒められるとどうにも気恥ずかしくなってくる。 頭を掻きながら私はベッドから立ち上がって言った。 「そういや、喉乾いてないか? ずっと話しっぱなしだったしな。 冷蔵庫から何か飲み物持って来るよ。 私はコーラでも飲もうかな」 「えっと、律……」 「分かってるって。澪のは炭酸じゃないやつな」 「なあ、律……」 「澪は紅茶がいいか? 確か缶のやつの買い置きがあったはず……」 「律!」 何だよ、と言おうとしたけど、その言葉が私の口から出てくる事はなかった。 いつの間にか背中にとても柔らかい感触を感じていたからだ。 澪に抱き付かれたんだと気付いたのは、十秒くらい経ってからの事だった。 別に澪に抱き付かれる事自体は珍しい事じゃない。 基本は恐がりな澪だ。何かあればよく私に抱き付いてきていた。 面倒ではあったけど、よく抱き付いてくる澪の事を私は嫌いじゃなかった。 澪の身体は柔らくて気持ち良かったし、頼られているんだと思うのは嬉しかった。 でも、今回の抱き付きは違った。 普通なら澪は私の腰かお腹に手を回して抱き付いてくる事が多い。 抱き付きなんだ。そりゃ手を回すのは腰かお腹だろう。 今回は違った。何もかもが違った。 澪は私の肩から手を回して、私の背中に全身を預けて抱き付いてきていた。 いや、そうじゃない。 これは抱き付かれたって言うより、抱き締められたって言う方が正しいか。 澪に抱き締められるのも初めてじゃない。 あれは学園祭の時、『ロミオとジュリエット』を演じた時にも澪に抱き締められた事がある。 劇の演出上、抱き合わなきゃいけなかったあの時、確かに私は澪に抱き締められた。 それに関して私は特に何も感じなかった。 劇の配役の事だし、相手が澪なんだ。 抱き締められる事には特に何の抵抗もなかった。 澪も私を抱き締める事について感じるものはないみたいで、 私を抱き締める澪の胸や腕から特別な感情は何も感じなかった。 でも、 これは、 違う。 私には分かる。分かってしまう。 澪は心の底から私を抱き締めている。 腕の中に抱き止めようとしているんだって。 それについて私は何も言えない。 言葉が見つからない。 さっき今生の別れになるかもしれない話を切り出した時よりも、頭が混乱してしまっている。 まさか……、やっぱり……、だけど……。 何も言えない私の様子を不安に感じたんだろう。 澪が震えながら、言葉を絞り出した。 私は背中で澪の震えを感じながら、その言葉を聞いた。 「……行かないでよ」 「……み……お……?」 「行かないで……。 傍にいてよ、律……!」 澪ちゃんは甘えんぼでちゅねー、とからかう事は出来なかった。 肝試しの時や怪談を話してみた時、色んな場面で澪は私に抱き付いてきた。 その時も澪は震えていたけど、 今回の澪の震えはそのどれよりも強く、心の底から震えてる感じがした。 さっき頼もしい姿で私の弱音を受け止めてくれたのは、強がりだったのか? いや、それも違う。 あの姿とあの言葉は澪の本音だと思うし、強がってたわけじゃないはずだ。 だけど、今の澪は心底怯えてる様子だ。 という事は、さっきまでの頼もしい姿の真実は、つまり……。 「大丈夫だって、澪。 飲み物取ってくるだけだから。 ほんの少し離れるだけなんだからさ」 私は背中に澪の感触を感じながら囁いた。 そう囁いてあげる以外、どうすればいいかは思い付かなかった。 それにこれでよかったはずだ。 澪の姿を見て、私は一つの事を考えていた。 こう考えるのは、何度も感じてきた事だけど自意識過剰だと思う。 だけど、必要以上に卑屈でいる事も、もうやめるべきなんだろう。 私はあまり自分に自信がないけど……、 自信があるように見せておいて、本当はとても自分に自信が持てないけど……、 でも、分かった。 もう目を逸らさずに、そう考えなきゃいけなかった。 さっき澪が私の前で頼もしい姿を見せられたのは、私の前だったからだ。 私が傍にいたからなんだ。 私が近くにいたから、澪は強い姿の澪でいられた。 私の悩みを吹き飛ばしてくれる頼れる幼馴染みでいられたんだ。 だからこそ、今の澪は震えてるんだ。 怯え切って、私を行かせまいと私に縋り付いているんだ。 一人になってしまったら強い自分でいられなくなるから。 世界の終わりが恐ろしくて、居ても立ってもいられなくなるからだ。 その気持ちは私にもよく分かる。私だからこそよく分かる。 私も澪と同じだった。 流石に誰かと一瞬でも離れたくないほど怯えてたわけじゃないけど、 私だって世界の終わりが恐かったし、自分が死んでしまう事が嫌だった。 だから、澪に傍にいてもらいたくて、学校に連れ出したんだ。 澪にはそれに無理に付き合ってもらってるんだって、私はさっきまで思ってた。 それが負い目で、それが辛くて、 もう無理に付き合ってくれなくてもいいって、なけなしの勇気で澪に切り出した。 でも、澪は顔を横に振ってくれた。 他に過ごしたい誰かなんかいない。 最後まで一緒に過ごしたいのは軽音部の皆だって言ってくれた。 それはとても嬉しかったけど……。 違ったのか? 本当に一人でいる事が恐くて耐えられないのは、 私じゃなくて澪だったのか? 私が澪を必要とするよりも、澪の方がずっと私を必要としてたのか? 私は自分に自信が持てなくて、そう考えないようにしてた。 自分が誰かに必要にされるなんて、そんなの恥ずかしくて考えられなかった。 特に前に和と澪の仲の良さを見て、つい嫌な気分になって皆に迷惑を掛けちゃった私だ。 あれ以来、自分が澪に必要な人間だなんて、出来るだけ考えないようにしてたしな。 勿論、誰かに……、それも澪に必要にされる事が嫌なわけがない。 本当に嬉しい。 どうにか澪を助けてあげたい。 澪が私を支えてくれたみたいに、私も澪を支えてあげられたら……。 そう思えたから、私はもう一言だけ澪に伝えられた。 「大丈夫。傍にいるよ。 世界の終わりまで、もう澪が嫌だって言っても傍にいるぞ? だからさ、そんなに抱き付かなくっても大丈夫だって」 恥ずかしい言葉だった気は自分でもする。 でも、それが私の本音だったし、今はそんな言葉を言ってもいい時だったと思う。 その私の言葉は、全部は無理だったけれど、 少しは私の後ろの澪の震えを弱めてあげられたみたいだった。 震えより柔らかさの方が気になるくらいになった頃、 落ち着いた声色を取り戻した澪は私の耳元で小さく囁いた。 「ごめん……。 ありがとう、律……。 何だかすごく不安になっちゃって。 私の隣から律が離れるのがすごく恐くて、行ってほしくなくて……。 こんな急に……、ごめん……」 「いいよ」 「傍に……、いてくれる?」 「いるよ」 私が言うと、澪はしばらく黙った。 私達二人には珍しい沈黙の時間。 でも、それが嫌じゃない。 澪は私から身体を離しはしなかったけど、 それでも震えを少しずつ弱めていって、その内に完全に震えを感じなくなった。 腕の力は弱めずに、少し強く私を抱き締めたままで澪が続ける。 「考えてみたら、私って律に抱き付いてばっかりだよな……」 「もう慣れたから気にすんなって。 でも、気を付けろよ? 相手が私だからいいけど、間違って男子になんか抱き付いてみろ。 澪は美人さんだからな、一発で恋されちゃうぞ?」 「美人……かな……」 「ファンクラブもある澪さんが何をおっしゃる。 間違いなく美人だよ、澪は。 いいよなー。羨ましいよ。 私が男子に抱き付いたりした日にゃ、「さば折りかと思った」とか言われる有様だし」 「……っ! 男子に抱き付いた事……、あるの……?」 「いや、ないけど。 同じ学校のおまえに言う事じゃないけど、うち女子高じゃんか。 単なる予測だよ、予測」 「びっくりさせるなよ……」 「そんな驚く事じゃないだろ、失礼な奴だな。 くそー、今に見てろよ。 私だって澪が羨ましがるようなセレブリティなイケてるメンズを彼氏に……、って、痛!」 急に私を抱き締める澪の腕に力が入って、私はつい叫んでしまう。 正直、かなり苦しい。 単なる冗談なのに、何がそんなに気に入らないんだ。 私はわざと少し不機嫌な声色になって、後ろの澪に不満をぶつけてやる。 「私、何か変な事言ったか?」 「なあ、律……。 一つ聞いて欲しいんだけど……」 「何だよ……。 先に腕の力を緩めてくれよ。ちょっと苦しいぞ……」 「先に聞いてほしいんだ」 「……あ、ああ」 澪の妙に真剣な声に私は頷く事しかできなかった。 澪の言葉を聞かなきゃいけないと思った。 その時、私には一つの予感があったからだ。 できる限りだけど目を逸らす事をやめて、 目の前の事を受け入れようと思った私が正面から向かい合わないといけない問題。 その問題と向き合う時が目前に迫ってるって予感が。 「さっき律は間違えて誰かに抱き付くなって言った」 「……言ったな」 「でも、私は他の誰かに抱き付いたりなんかしないよ。 私が抱き付くのは、律だけだから。 いや、違うか。 抱き付くくらいなら、女子限定だけど誰かにする事はあるかもしれない。 でも……、私が自分の意志で、自分から抱き締めるのは律だけなんだ」 どういう意味? って聞くのも不躾だろうし、もう今更過ぎる気もした。 澪の言いたい事は、さっき分かったんだ。 いや、分かってたんだ。自分で見ないようにしてただけで。 私はそれに応えないといけない。 12
https://w.atwiki.jp/83452/pages/16177.html
講堂にあいつの声が響いた。 この一週間、私達の前で何度も涙を見せたあいつが、 『終末宣言』のずっと前から別れを悲しんでいたあいつが、言葉を皆に届けてくれた。 涙を流さずに。 優しい微笑みまで浮かべて。 真面目で、内気で、寂しがり屋で、小さな後輩が……。 私達の想いを継いでくれた。 「ギターの中野梓です。 今晩は私達放課後ティータイムのライブに来て頂き、ありがとうございます。 ライブ開催の告知が一昨日っていう突然さにも関わらず、 こんなに多くの方々に集まって頂けるなんて、本当に嬉しいです。 重ね重ね、ありがとうございます」 MCなんてろくにやった事も無いくせに、堂に入っていた。 少なくとも私よりは遥かによくできてる。 いつの間に練習してたんだろうか。 ひょっとして、こうなるのを承知で隠れて練習してたのか? いや、違うか。 多分、ずっと前から……、 一年生の新入部員が居ないと分かった時から、 来年、自分が部長として軽音部を引っ張る事を自覚して、梓はMCを練習してたんだ。 私達の跡を継いでくれるために。軽音部を続けていくために。 それにきっと、このライブは梓にとってこそ無駄にできないライブなんだと思う。 世界の終わりが来なきゃ、開催するはずもなかったこの最後のライブ。 世界の終わりを迎える不運な私達が、幸運にも開催できる事になったライブだから……。 来年一人で取り残されるのを覚悟してた梓だからこそ、その大切さを誰よりも分かってるんだ。 だからこそ、泣いてる場合じゃない。 最高のライブに……、 『絶対、歴史に残すライブ』にしなきゃいけないんだって分かってるんだ。 梓は泣き声の止まらない客席に、温かく優しい言葉を届け続ける。 泣き顔だらけの講堂の中、眩いくらいの笑顔で。 「実は私、こう言うのも何ですけど、 このライブ、皆さんにはご迷惑だったかなって思ってます。 だって、開催告知が二日前なんですよ? 急過ぎるにも程がありますよね。 何と軽音部の皆も、部長以外今日ライブやるって事を知らなかったくらいなんです。 やるやるって言ってましたから準備はしてましたけど、 それにしたってもう少し前に言ってくれてもいいじゃないですか。 まったく……、うちの部長っていつもそうなんですよ……。 ドラムのリズムキープもバラバラだし、走り気味な所もありますし……。 しっかりしてほしいですよ、本当に」 「部長いじめか、中野ーっ!」 つい立ち上がって叫んで、気付いた。 私、泣いてない……。 涙が止まっていて、声も出せてる……。 ふと見回してみれば、澪達の涙も止まっていたし、客席から笑い声が漏れ始めていた。 そうか……。 梓が皆の涙を止めたんだ。 梓が皆の悲しみを吹き飛ばしたんだ……。 そうか……! 「梓、おまえ……」 立派な後輩……、 ううん、私達には勿体無いくらいの最高の後輩だよ、おまえは……。 その言葉を届けるより先に、梓が惚れちゃいそうになるくらい優しい笑顔を私に向けた。 その梓の笑顔が本当は何を意味していたのかは分からない。 でも、その梓の笑顔は、私にも頼って下さいよ、と言ってるように見えた。 私は皆を支える事ばかり考えてた。 支えられてる事を申し訳なくも思ってた。 でも、そういう考え方をしなくてよかったのかもしれない。 私は皆を支えたい。同じ様に皆も私を支えたいと思ってるんだろう。 支えるとか支えられるとかじゃなくて、支え合うんだ。 そうだよ……。 今更だけど、私達は五人で放課後ティータイムなんだ……! 梓が客席に視線を戻す。 後ろ手に私の方を指し示しながら、言葉を続ける。 「皆さんご存じだと思いますけど、 今立ち上がったのが、私達軽音部の部長、田井中律先輩です。 あんまり練習しないし、遊んでばかりで変な事ばかり思い付くし、 リズムキープもバラバラで走り気味な人なんですけど……、 私、律先輩のドラムが大好きなんです。 実は律先輩と合わせると、同じ曲が毎回全然違った曲になっちゃうんですよね。 聴いてる方には堪ったものじゃないかもしれませんけど、それってすっごく楽しいんです。 私、親がジャズバンドをやっていたので、 その影響でギターを始めたんですけど、皆さん、ジャズって知ってます? 人によるとも思いますけど、ジャズって演奏中に即興で新しい曲を作っちゃう事があるんですよ。 同じ曲を演奏していても、毎回新しい進化した曲になるんです。 方向性は違いますけど、律先輩ってそんなジャズみたいな人だなって思うんです。 勿論、酷い曲になる事も多いんですけど、 たまに想像していた以上のすごい曲になって、 自分でも感動するくらいの曲を演奏できる事があるんですよ。 本当にたまに……ですけどね。 でも、その感動を知っちゃったら、もう律先輩とのセッションを忘れられません。 何度失敗しても、何度も一緒にセッションしたくなっちゃうんです。 律先輩も罪な人ですよね」 褒められてるんだか馬鹿にされてるんだか分からなかったけど、 今はただ梓のMCを聞いているのが面白くて、楽しくて、嬉しかった。 そんな風に考えてくれてたんだな、梓……。 そう考えながら私が目を細めて梓の後ろ姿を見つめていると、急に梓が続けた。 「それでは、もう一度ご紹介します! ドラム担当で軽音部部長、田井中律先輩です! 律先輩、一言どうぞ!」 一言と来たか。 いいだろう。 皆に感動的な言葉を届けてやろうじゃないか……、 とマイクに口を寄せた瞬間、マイクも使ってないくせに講堂中に大きな声が響いた。 「その前髪下ろした人、誰ー?」 「今、紹介されただろ! りっちゃんだよ! 部長でドラムの田井中のりっちゃんだよ! カチューシャしてないから分からなかったか、コンチクショーッ!」 スティックを振り回して、大声の発生源に文句を言ってやる。 大声の発生源の正体は探さなくても声で分かる。 信代だ。この声色でこの声量で叫べるのは信代しかいない。 誰かに突っ込まれるだろうとは思ってたが、やっぱり一番に信代が突っ込みやがったか……。 睨むみたいに視線を向けてみると、 多分旦那なんだろう男の人の背中を何故か叩きながら、信代が続けた。 「冗談だよ、律! カチューシャしてないのも可愛いじゃん! 欲を言えばパーカーのフードを脱いでくれると嬉しいんだけどさ!」 「りっちゃん、可愛いー!」 「結婚してーっ!」 信代の言葉に続いて、エリや春子なんかが歓声を上げる。 こいつら、本当にろくでもないクラスメイト達だな……! 「うっせ! フードだけは絶対脱がないからな!」 吐き捨てるみたいに言ってやってから、私は少しだけ深くフードを被り直す。 やめてくれよな……。 ただでさえ恥ずかしいのに、『可愛い』だなんて言いやがって……。 何だか顔が熱くなっちゃうじゃんか……。 そうやって縮こまってる私の姿を見てから、梓が苦笑交じりの声で言った。 「もう、律先輩は仕方ないですね……。 それでは、メンバー紹介を続けますね。 次にご紹介するのは、キーボード担当の琴吹紬先輩です」 「わ、私……?」 いきなり自分の話題になるとは思ってなかったんだろう。 ムギが驚いた様子で梓に視線を向ける。 そのムギの目尻は涙で濡れてはいたけど、それ以上涙が溢れ出す事も無かった。 「ムギー!」という歓声が客席のあちこちから上がる。 客席の様子を満足そうに見つめてから、梓がムギの方向に向き直す。 「琴吹紬先輩……、ムギ先輩は美人で、優しくて、大人っぽい素敵な先輩です。 それに放課後ティータイムの曲の作曲もほとんどムギ先輩がやってるんですよ。 作曲なんてそう簡単にできる事じゃないのに、何曲も制作してくれて本当に助かってます。 部室に居る時はいつも私達に美味しいお菓子を用意してくれるし、お世話になってばかりです。 あ、お世話になってるのは、私だけじゃなくて律先輩達もなんですけどね」 言ってから、梓が悪戯っぽい笑顔を私に向ける。 反論しようかとも思ったんだけど、よく考えたら全然反論できない。 考えてみれば、ムギにはお世話になりっ放しだ。 ライブが終わったら、せめてお茶の準備くらいは手伝おうかな。 そう思って何となく視線を向けてみると、軽くムギの頬が赤く染まっていた。 いつも穏やかなムギとは言え、人前で後輩に褒められるのは照れ臭いものらしい。 「実はですね……」と何処か楽しそうにさえ聞こえる声色で梓が続ける。 「ムギ先輩ってそんな非の打ち所の無い先輩だから、 私が入部した当初は近寄りがたい雰囲気があったんです。 いいえ、そうじゃありませんね。 ムギ先輩はいつでも優しい先輩なのに、私の方が勝手に縮こまっちゃってたんです。 私にはムギ先輩みたいなお嬢様っぽい知り合いが居なかったので、 何を話し掛けたらいいのかって、結構悩んだりしてたんですよね。 でも、軽音部でお世話になってる内に、 ムギ先輩も私達と同じ様な事を考える女の子なんだなって思うようになりました。 楽しい事があったら笑いますし、悲しい事があったら泣きますし、 当然の事なんですけど、ムギ先輩も私達と同じ普通の音楽好きの人なんだなって……。 そうそう。 意外かもしれませんけど、ムギ先輩ったら、お茶の時間におやつの摘み食いなんかもしてるんですよ」 「あーっ! 梓ちゃん、それ内緒の話なのにー!」 ムギがまた顔を赤く染めて、私達の顔色をうかがう。 内緒にしてた事が私達にばれたと思って、恥ずかしくて仕方が無いに違いない。 まあ、ムギがたまに摘み食いしてるのは、 軽音部なら皆が知ってる話なんだけど、 ムギとしては私達に内緒にしているつもりだったんだろうな。 恥ずかしそうに、ムギが視線を落として呟く。 「だって、美味しそうなんだもん……」 滅多に見せないそのムギの照れた様子はとても可愛らしかった。 客席の皆もそう思っていたみたいで、 微笑ましそうに「いいなー、私も食べてみたいなー」という感じの声があちこちから上がっていた。 「あ、そうだ」 不意に何かを思い出したみたいに、 ムギがキーボードの前に置かれていたマイクを手に取って言った。 「皆さん、今日は私達のライブにお越し頂き、ありがとうございます。 キーボード担当の琴吹紬です。 また皆さんにライブでお会いできて、私、嬉しいです。 すっごく楽しくて、すっごくすっごく嬉しいです! 皆さんの大切な時間を私達に頂けて、本当に感謝してます! 皆さんの心に残るライブになるよう精一杯演奏するのは勿論ですけど、 実は今日、皆さんへの感謝の気持ちを込めてたくさんのケーキを用意してるんです。 ライブが終わっても、そのまま客席で待ってて下さい。 皆さんにケーキをお配りしますね」 客席から嬉しそうな歓声が上がる。 その感性を尻目にムギが私達の方に視線を向けると、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。 「ごめんね。皆の分のケーキが減っちゃうけど……」 「別にいいよ。美味しい物は皆で味わった方がいいしさ」 首を横に振って言った後、私はふと気が付いた。 私達のケーキが減るのは構わないけど、 客席の皆の分のケーキが準備できてるのかって思ったからだ。 ムギの様子を見る限りじゃ、 まさか二百人ものお客さんが集まってくれるとは思ってなかったみたいだ。 私達が考えていたのと同じく、ムギもお客さんは三十人くらいだと予測していたはずだ。 だとすると、圧倒的にケーキの数が足りないはずなんだけど……。 それを訊ねると、ムギは小さく苦笑した。 「大丈夫。 今日は一人一ホールのつもりでケーキを用意してたの。 切り分ければ、皆の分のケーキを用意できると思うよ」 「一ホールかよ!」 思わず突っ込んだ。 いくら何でも一人一ホールは多過ぎだ。 唯なら食べ切るかもしれないけど、 少なくとも私を含めた常人の皆さんじゃ間違いなく食べ切れない。 でも、今回はムギのその天然が幸いしたかな。 皆にムギの美味しいケーキを味わってもらえるなら、それで結果オーライだ。 「流石はムギ先輩……」 梓が困ったように呟いていたが、その表情は笑顔だった。 少しずつ分かってはきたけど、 まだまだ謎の多いムギの姿を楽しくも嬉しくも思ってるんだろう。 「ケーキ、楽しみだねー」 涎でも垂らしそうな表情をしながら、唯が呟く。 こいつの頭の中はいつも甘い物と可愛い物の事ばかりだった。 それが今は心強い。 流していた涙も梓のおかげで拭い去れてるみたいだ。 それなら大丈夫。普段はともかく、唯は本番に強い女だ。 梓が少し口元を引き締め直し、唯を手の先で示す。 「それでは、次のメンバー紹介です。 ギターの平沢唯先輩です!」 「皆、今日は来てくれてありがとーっ!」 言い様、唯がギー太を目にも留らぬ超技巧で奏で始めた。 おー、ミュージシャンっぽい。 これはふわふわのギターアレンジだな。 妙にミュージシャンっぽい姿にこだわる唯にとって、一度はライブでやってみたかった事なんだろう。 ライブなんかでよく見る光景だしな。 それにしても、高校一年生になるまでギターに触れた事も無かったとは思えない見事なテクニックだ。 こういうのを天才って言うんだろうな。 悔しくて羨ましくもあるけど、今はただただ頼もしい。 天才と出会え、その天才と組めた偶然に感謝したい。 私は天才じゃないけど、天才と組めたって点では天から愛されてるのかもな。 天才の唯。本番に強い唯。天然ボケの唯。 そんな唯なら、今からの演奏と歌声で皆を笑顔にする事ができるはずだ。 ……とか思ってたら、急に間の抜けた不協和音が講堂を包んだ。 「あ、間違っちゃった」 頭を掻いて、唯が苦笑いを浮かべる。 超技巧に挑戦し過ぎて、一番難しい所で指が動き損ねてしまったらしい。 おいおい、大丈夫か……。 梓とムギが苦笑する。 澪……も、被ったフードの奥の目尻の涙を拭いながら笑ってる。 客席の皆からも大きな笑い声が上がる。 狙ってやったのかどうなのか、とにかく唯は本当に皆を笑顔にしてしまった。 ミュージシャンとしてはどうかと思うが、これが一つの唯の音楽なのかもしれないな。 「えーっと……」 梓が苦笑を浮かべたままで続ける。 「今見た通りの人が唯先輩です。 それでは、次の人の紹介に……」 「私の紹介それだけっ? あずにゃんのいけずぅ……。 もっとりっちゃんやムギちゃんみたいに紹介してよー……!」 「自分で自己紹介して下さい」 「ひどいよ、あずにゃん……」 「そんな泣きそうな声を出さないで下さいよ……。 私がいじめてるみたいじゃないですか」 「じゃあ、ちゃんと紹介してくれる……?」 49